自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

2025-01-01から1年間の記事一覧

ベドウィン的思考と多民族共生について

この年末、仕事は早めに休暇を取りましたが、やはり色んな用事が立て続いてしまい、こちらのブログ記事の更新を少しお座成りにしてしまいました。 今回はX(旧Twitter)でもよく話題になっている移民問題について、私が思う処を少し書いてみたいと思います。…

仏界という事について

そもそも「仏界」とはどんな境涯なのでしょうか。 方便品第二には「舎利弗、要を取って之を言わば、無量無辺未曾有の法を、仏悉く成就したまえり。」とあり、如来寿量品第十六には「如来は如実に三界の相を知見す」とあります。 ここから読み取れる事は、仏…

自身という存在について

さて、前の記事では自我を感じる心の働き、これを末那識と呼んでいて、この末那識とは阿頼耶識を向いて自我を認識しているが、それ(自我:末那識)とは実は錯覚なんだという事について説明しました。 これが実に理解し難い事でもあります。 何故ならこの自…

万人が仏という意義について

前の記事では、インド応誕の釈迦の前世の師匠である仏の燃燈仏も、久遠実成の釈尊がこの世界に出現した姿であると共に、インド応誕の釈迦も久遠実成の釈尊の姿であると法華経の如来寿量品に説かれている事を紹介しました。 でも考えてみれば、師匠と自分が「…

久遠実成の釈尊の指し示す事

さて、創価学会の役職の事を書いていますが、過去の自分の記憶の隅を改めて掘り返して考えてみると、やはり本部長以上から創価学会の役職で感じる事は「信仰者」ではなく「組織の運営者」としての側面が強くなる事を、改めて感じています。 そもそも「御本尊…

創価学会の役職について(12)-区書記長③

区書記長時代というのは、とにかく組織の事務屋として行う事が大概でした。 私が若い頃、そうですね、地区幹部の頃には区書記長が組織から居なくなった事がありました。その書記長は強面の人で、誰もが恐れる人だったのですが、いきなり消えてしまったのです…

創価学会の役職について(12)-区書記長②

私がこの区書記長をやっていて良かったなと思う事は、今の仕事にも多少、その経験が役立っていると感じる事です。 今の仕事はIT関連の仕事で、機器メーカーと協力してサービス提供を進めるのですが、その際の間の取り方やスケジュール感を考える時、この書記…

創価学会の役職について(12)-区書記長①

前回の本部長という役職で活動をしていた頃は、正直記憶が薄いものでした。これはあまり印象に残る事は無かったという事なのかもしれません。 でもけして暇だったという訳ではなく、どちらかと言うと「人との接しあい」というよりも、組織の運営サイドの活動…

創価学会の役職について(11)-本部長時代

今回は創価学会の役職の話をします。 副本部長兼任部長という立場は、約1年間で終了しました。 実は地元の創価学会の組織割の改変があって、それまで3本部15支部体制から4本部17支部体制となりました。またそれに合わせて本部長が区で1名増員となっ…

日本国憲法に見える問題点

さて、日本と中国の間の緊張感は日々高まっていますね。 そんな中で国内では高市総理が発言を撤回すればいいとか、謝罪すれば丸く収まるという論調が多くあります。しかしこと問題は「国家間の外交」のレベルの話であって、隣近所の言い争いというレベルでは…

日蓮についての見解②

この話を続けます。 前回の記事で私は日蓮が何も初めて人々の中に仏教を広め始めた訳ではなく、それまでの国家鎮護の仏教という枠組みから、鎌倉時代の仏教、これは民衆に対して仏教を開いたという事のパイオニアは実は法然房源空である事を述べました。 た…

日蓮についての見解①

もう年末なんですよね、今年もあと残り僅かです。 この週末(12/6~7)はちょっと外出していまして、そこで友人(学会活動家)とも会って様々な話をしました。この友人とは四十年来の付き合いで、高等部の時から付き合っているという稀有な関係で、地域は異…

戦後八十年で戦争を忘れた日本という国

高市総理が2025年11月7日に、予算委員会で立憲民主党の岡田克也氏との質疑の中で行った「台湾有事に関する発言」を巡り、現在でも中国との間で様々な議論を巻き起こしており、その収束の道筋は全く見えておりません。 この高市総理の発言の中の「存立危機事…

薩英戦争

さて「生麦事件」によりイギリス政府は幕府に対して謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、それと合わせて薩摩藩は幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を派遣して薩摩藩と直接交渉し、犯人の処罰、及び2万5千ポンドの賠償金を要求する事を幕府に通告してい…

寺田屋事件と生麦事件

前回は公武合体政策について少し書いてみました。その後、長州藩について少し触れましたが、ここで再度、公武合体制政策前後に時代の眼を移し、見て行きたいと思います。 公武合体政策その推進役となっていたのは薩摩藩の島津久光でしたが、久光は徳川家茂と…

創価学会の役職について(10)-区広宣部長時代

前の記事では副本部長になった事を書きましたが、今回は創価班で区広宣部長になった時の事を書いてみます。 創価学会で本部幹部以上の人事は、聖教新聞の方面版のページで「人事紹介」として紹介されます。しかし創価班の広宣部長という名称で発表される事は…

創価学会の役職について(10)-副本部長時代

さて、創価学会の役職経験の事について続けていきます。 しかしこうして今から四半世紀以上前の経験を書こうとして、記憶の糸を手繰り寄せていますが、この当時は本気で「50歳まで生きたら御の字だな」なんて考えても居ました。とにかく休日も無いし恒常的に…

創価学会の役職について(9)-創価班班長の事(広宣部)

さて、創価学会の役職の件を続けます。 今回は広宣部の事を書いていきます。創価班と言う組織では当時「運営畑」「広宣畑」と呼んでいましたが、私の場合は組織の部長と共に創価班班長をやっていて、そこに広宣部というのが常に付いていました。だから周辺か…

創価学会の役職について(9)-創価班班長の事

創価学会の役職の事について書きます。 昔は「創価班大学校」「牙城会大学校」という二つの潮流があって、そこから「創価班」「牙城会」という人材グループの流れがありました。しかし最近では男子部世代が枯渇している事もあり、「創価班大学校」「牙城会大…

長州藩の動き

幕末の動きで、とても重要な動きをした藩があります。それは長州藩です。 「明治維新という名の洗脳」(苫米地英人著)には、とても興味深い内容が書かれていましたので、それを参考に少しこの長州藩について自分が感じた事を書いてみます。 ◆長州藩という藩…

敵国条項と軍国主義について

昨日は良い天気でしたね。 もう間もなく12月なんですが、昨日は比較的温暖な陽気で、箱根や丹沢、奥多摩なども紅葉で多く人出があった様です。 斯くいう私は、昨日は伊豆下田まで行って「下田バーガー」を食べていました。 昨日の伊豆下田もそこそこ人がい…

公武合体政策について

今回は幕末の歴史について取り上げます。 前回は日米修好通商条約の締結など、諸外国との通商条約を大老の井伊直弼の独断で締結した事を書きました。一般的な歴史では「独断」で締結と言われていましたが、実は井伊直弼自身は独断で締結するという強い意志が…

創価学会の役職について(8)-部長の事④「折伏」

男子部時代の部長の活動の中、今でも一番印象が残るもの。それは「折伏」です。 日寛師の御本尊授与が再開されたばかりの時には、この「折伏戦」についてはそれほど過激ではありませんでした。とにかく「常識的に」という言葉が良く語られていました。しかし…

創価学会の役職について(8)-部長の事③「御本尊授与や選挙など」

今から考えてみたら、私が男子部の部長という役職についた当時は、創価学会としても大きな変化を迎えていた時期だと思います。 まず一つ目は、国政選挙の活動がありませんでした。 これは1994年12月に新進党が成立し、公明党は分党した時期でもあったのです…

創価学会の役職について(8)-部長の事②

さて、部長の話を続けます。 部長になると「創価学会人事委員会」という名目の入った「任命書」が手渡されました。これは私が本部長になって知った事なのですが、男子部で部長もしくは副部長になると「幹部コード」というのが割り振られます。いわゆる幹部の…

創価学会の役職について(8)-部長の事①

創価学会の役職について書いてみます。 前回は地区リーダーであり、創価班での運営や広宣部の事も書かせてもらいました。 私は21歳から地区リーダーを5年ほどやりました。年齢にすれば21歳から26歳までの5年間です。この地区リーダーの期間は、当時の地元組…

高市総理の台湾有事の発言について

何かとネットの中で騒ぎになっている高市総理の台湾有事に関する発言ですが、今回は少しこの件について私見を述べてみたいと思います。 X上では様々な意見が湧き出していますが、この内容はあそこで語るには不向きだし、下手にあの場で触れられる事でもあり…

日蓮の入寂について

さて、日蓮の入寂について書いてみます。 一般的に日蓮宗や日蓮正宗、また関連する宗教団体ではこれを「入滅」と呼ぶ節がありますが、私は仏教において高僧や修行者が亡くなることを表す敬語的表現として「入寂」という表現を使わせてもらいます。 日蓮は仏…

弘安の役について

日蓮の時代の歴史について、書いていきます。 前にも書いた「文永の役」で、日蓮が立正安国論で予見していた「他国侵逼難」は現実なものとなりました。しかし文永の役では、結果として元軍では作戦失敗という事で、日本から撤退しました。 この時、鎌倉幕府…

聖人御難事と出世の本懐

さて、拙い内容で恐縮ですが、昨日の記事で「熱原の法難」について少しまとめてみました。 日蓮は弘安2年9月21日の「熱原の法難」の報告を受け、10月1日に四条金吾に対して「人々御中に報ず」として「聖人御難事」という書をしたため届けました。そしてこの…