日蓮と仏教関係
法華経は難信難解の法門であり、その法華経を広めようとした自身について語り始めます。 ◆但日蓮一人なり 「此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年辺土に生をうけ其の上下賎其の上貧道の身なり」 信じ難く理解し難い法華経を知り、それを広めよう…
ここから日蓮の教えの核心部分へと入っていきます。 ◆本門の因果について 「此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあ…
ここまで開目抄を紹介してきましたが、開目抄はとても長文の御書になっています。この御書を与えられたのは四条金吾を筆頭に、鎌倉の門下一同に対してです。当時の日蓮は佐渡に流罪され、何時斬首されてもおかしくない状況の中で、鎌倉に残った門下も様々な…
開目抄では先に「二箇の大事あり」と、爾前経と法華経には二つの大きな違いがある事を述べましたが、ここでその事について詳述を始めます。 「此に予愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我…
前の章では道教や儒教の中に仏教が混入した事について日蓮は述べていましたが、つづいて漢土(中国)や日本の中で、法華経宗と表題に書きましたが、天台大師智顗の打ち立てた宗派がどの様に興亡していったのかについて述べています。 日蓮の法華経信仰の原点…
開目抄について続けていきます。 ◆法華経について 「儒外内」と、人が修学すべき事の中で仏教が一番肝要な事とは言っても、その仏教の中は様々な宗派等に分かれていました。 「但し仏教に入て五十余年の経経八万法蔵を勘たるに小乗あり大乗あり権経あり実経…
長い間、私はこの開目抄を「人本尊開顕の書」だと信じてきた。しかし創価学会や日蓮正宗からの「呪縛」から逃れて、改めて読んでみるとそこには違った内容が見えてきたのです。 ここで改めて当時の日蓮及び周囲の状況について確認してみます。日蓮が佐渡流罪…
さて、今回は日蓮の事について書いていきます。 前回は塚原問答と、守護代の本間氏に対して「二月騒動」の事を伝えた事を紹介しました。この塚原問答の時期に日蓮が書き著した御書が「開目抄」となります。 当時は現代と違い、紙は貴重なものでした。そこ事…
日蓮の事について続けます。 最近、SNSでは公明党やその支持者たちが必死に、公明党は凄いとか、実績オバケだとか言っていますが、彼らの大半はそもそも創価学会員であり、日蓮の顕した文字曼荼羅に日蓮の唱えた御題目を日々唱えているんですから、もう少し…
今回も日蓮の事を続けます。 相模国依知(現在の神奈川県厚木市)にとどめ置かれていた日蓮は、その後、幕府の命により佐渡島へ流罪となりました。 龍ノ口の首の座があったのは9月12日で、10月に幕府から佐渡流罪の決定がなされたので、1か月近く、この相模…
さて、ラセルタファイルで長い間、空いてしまいましたが、日蓮に対する思索を少し進めてみたいと思います。 ◆発迹顕本について 日蓮正宗や過去の創価学会ではこの「龍ノ口の法難」で日蓮は発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)されたと言われています。その具体的…
さて、龍ノ口の法難について話を続けます。 この龍ノ口の法難を知る手がかりとしては、日蓮の種種御振舞御書が一つの手がかりとなります。恐らく幕府の瞋りの根本原因の中には、当時の鎌倉仏教界の中から日蓮への讒言も多くあった事が伺われます。 それは日…
さて、日蓮の話題に戻ります。 前回の記事では小松原の法難まで書きました。 tango-saito.hateblo.jp 日蓮は伊豆流罪から生還するだけではなく、小松原法難の前後では地頭の東条景信との訴訟で勝利して、しかもその東条景信からの闇討ちの中でも生き延びてい…
伊豆流罪を赦免され、日蓮は鎌倉に戻ってきました。 この翌年の文永元年(1264年)十一月十一日に、日蓮は安房国小松原で「小松原の法難」に逢う事になります。 この小松原の法難ですが、安房の天津に向かっていた日蓮一行が小松原(現千葉県鴨川市)に差し…
日蓮は伊豆に流罪となりました。 流罪の地は伊東でしたが、この地は北条得宗家有縁の地であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が流罪された地であり、北条家の身内である伊東氏がこの地を治めていました。 鎌倉市中を引き回された後、由比ガ浜から伊東へと流されま…
松葉が谷の小庵を襲撃されましたが、そこを何とか逃れた日蓮は、鎌倉を一旦離れ、下総の富木常忍を頼りそこに滞在したという話があります。 富木常忍は下総国の守護である千葉氏の被官であり豪族でした。日蓮門下となったのは建長五年(1253年)とされていま…
さて、日蓮の話に戻ります。 前回は立正安国論を最明寺入道時頼(北条時頼)に上呈するまでの事を書きました。日蓮の想いとしては、恐らく最明寺入道に立正安国論を提出すれば、例えば意見を述べる場が持たれるとか、念仏僧との公場対決など何かしら幕府から…
立正安国論について続けます。 ・5つ目の問いと答えについて ここで客人は憤慨して言います。「何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや」と。つまり法然上人ほどの聖人はいないではないか、何故あなたは敢えてあら捜しの様に咎…
ここから立正安国論に書かれている内容について書いていきます。 当時、僧侶は今でいう学者的な立場でもありました。通常は僧侶の著す論というのは、格式のある論文による構成になるのですが、立正安国論は主人と客人による対話という形式を用いて書かれてい…
◆立正安国論の題号 日蓮が上呈した立正安国論という題号には、どの様な意義を込めていたのでしょうか。これは「正を立て国を安んじる論」という事ですが、この事について日蓮は立正安国論の中で以下の様に述べています。 「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたる…
ここから立正安国論について書いていきます。 立正安国論とは今では国宝となっているものですが、これは日蓮が時の幕府に対して諌暁をしたものと言われています。日蓮の一生とは立正安国論に始まり、立正安国論に終わると言われており、亡くなる際、池上邸で…
正嘉の大地震のあと、駿河の岩本実相寺で一切経を閲覧し、その後の流れとしては立正安国論に行くと、ちょっと日蓮を齧った人であれば思う事でしょう。現に創価学会の教学試験で学ぶ日蓮の歴史はその程度でした。 当時の鎌倉もそうですが、全国的に見ると飢饉…
創価学会では選挙活動を日蓮の立正安国論に重ね「国家諌暁の戦い」とか「立正安国の戦い」なんて事を言いますが、そももそ立正安国論に纏わる出来事、またそれに対して日蓮がどの様に感じていたのか、細かく理解はしていません。これを理解するためには歴史…
日蓮の事を続けます。 安房国小湊の清澄寺を追放された後、日蓮が鎌倉に居を移した事は知られていますが、では実際に何時頃の時期に、鎌倉に居を移したのか、そこは明確に語られる資料はありません。一般的には建長六年(1254年)頃と言われています。 ◆鎌倉…
今回から日蓮の話に戻ります。 前の記事( 日蓮について振り返る⑤ - 自燈明・法燈明のつづり )では比叡山延暦寺の修学から戻った日蓮は、清澄寺の持仏堂で人々に対して、己が確信した教えについて説き始め、結果としてそれが日蓮の清澄寺追放という事に結び…
私は創価学会男子部の時、とある日蓮正宗寺院の法華講の青年部幹部と対論をした事がありました。その時、法華講青年部幹部が私にある問いを投げかけて来たのです。 「斎藤さんは、御書を読むと言っていますが、もし創価学会教学部の見解と、池田大作の見解が…
日蓮について続けます。 幼名を「善日麿」と言っていた日蓮は、道善房の下で15歳で得度して「是聖房蓮長」と名乗ります。清澄寺にある一切経を読みつくし、その後、鎌倉を訪問し遊学したと言います。 ◆青年修学時の日蓮 昨日の記事では「虚空蔵菩薩への願い…
日蓮は12歳で道善房を師匠として清澄寺に入りましたが、この時の逸話として語っておかなければならない事に「虚空蔵菩薩」から智慧の宝珠を頂いたという話について、少し書いておきたいと思います。 ◆虚空蔵菩薩への請願 「而るを日蓮は安房の国東条の郷清澄…
◆日蓮の出自 日蓮は1222年(貞応元年)2月16日、安房の国長狭郡東条郷小湊で生まれました。父親は貫名重忠、母親は梅菊と言われています。 まず日蓮の両親について、母親の梅菊というのは各種の資料で判明しているのですが、実は父親の名前は判明していませ…
ここで日蓮について少し書いてみたいと思います。 昨日までUFOだ何だと書きながら、今回から日蓮の事を書くというのは、私自身もそのブレ幅で良いのか、と思う事もありますが、このブログでは私が今まで知ってきた事を書きながら、色んな事を考えていく事に…