
いま別サービスのブログで書き溜めた記事を改めて見直しています。
どうせブログの引っ越しをするなら、この機会に記事を出来る限り整理しながら移転した方が良いと思っていますが、何しろ書き殴り的な記事を含めて700件以上あるので、整理と一言で言っても中々至難の業なのです。
さて、前回は創価学会の活動を止めたところまで書きましたが、その後にネットで知り合った人、また様々な人との出会いの中で聞いた話などで、組織内で見てきた姿とはかなり異なる実像を知る事になりました。
これについては、過去の時期の再掲に合わせて、こちらでも順次書き連ねていくつもりです。
さて、活動を止めた後、前の記事でも少し書きましたが、当時の地元組織の区長をしていた先輩、かりにK氏としておきましょう。彼が私の家を訪れてきた事について書いてみます。
◆激励に来た
とある休日の昼下がり。私は自宅で子供相手にのんびり過ごしていると来客が。見るとK氏が玄関先に立っていました。
「元気にしてますか?最近見ていないので心配で来たんだよ」
一応、区長と言えば地元では大幹部の部類に入りますし、玄関で立ち話も何ですから、私はリビングにあげて話をする事にしました。
まあ始めは他愛のない会話から始まり、私が派遣先で見た事や感じた事を話すと、K氏は顎を両手を組んだ上にのせて聞いていました。顔は満面の作り笑顔です。
この当時から私は、創価学会の問題の根っこには組織的な問題以前に、その拠って立つ思想性にも大きな原因があるのではないかと感じていたのです。
同じく地元には男子部時代からの先輩で、私より前に組織を離れた先輩が幾人がいて、そんな先輩とも実は活動を止めた時に話をしたりしていました。先輩たちは異口同音に同じ様な事を言っていました。
「今の組織には池田先生がいないんだよ。幹部は官僚みたいになってさ、昔みたいな人間の温もりってのが無くなってんだよな。」
そんな先輩に対して私は「それは違うし、問題の原因ではないと思いますよ。そもそも組織の思想性自体に問題があったのではないでしょうか?」と言いましたが、先輩はそこには同意してくれませんでした。
私はこの時、この区長にも私が感じているこの原因についてぶつけてみようと思いました。
◆思想的な問題点
「ところで区長は、先日の本部幹部会であった池田先生の指導についてどう思いますか?」
K氏は「どんな事?」と言ったので、私は具体的な内容について話をしました。
この当時、私が区男子部長時代以降、組織の中でやたら言われ始めていた言葉に「師弟不二」というのがありました。簡単に言えば師匠が成仏すれば弟子も成仏し、弟子が成仏すれば師匠も成仏する。師匠と弟子は、二にして不二の関係にあるという事です。
正木副会長(後に理事長となり失脚)は当時、以下の指導を首都圏青男書会でしていました。
「池田先生は”これからの100年”という言葉を良く言われる。私はこの事を考え抜いたが、その結論は、過去に様々な宗教団体は教義論争による内部分裂で衰退したという事実だった。だから創価学会が池田先生亡きあと、分裂し衰退を防ぐには師弟しかない!」
つまり教義以前に師弟関係こそが、大事なんだという事を正木氏は指導していたのです。またこの当時、池田氏は本部幹部会に毎回出席をしていましたが、とある本部幹部会で以下の指導をしていました。
「仏法の究極は師弟なんです(机をバンバン叩く)!」
私はK氏にこの事について説明しました。
「池田先生は先日の本部幹部会で、”仏法の究極は師弟なんです”と言っていましたが、涅槃経には”依法不依人(法に依って人に依らざれ)”とあります。師弟とは人間関係の姿を言いますが、涅槃経では仏法は人ではなく法に依れと言っています。創価学会としてはどちらが正しいと言うのでしょうか?」
これを聞くと、K氏は一瞬、鳩が豆鉄砲を食った様な表情になりました。
創価学会は戸田会長の時から法こそが大事だと言い、日蓮大聖人の御書を心肝に染めるんだと指導をしていました。そして社会の思想性が乱れるから国が混乱し疲弊するとも言っていましたし、折伏(しゃくふく)という行為も絶対的に正しい法を以って邪法を挫く修行を言っているのです。
池田氏の指導とは、こういった事を実は蔑ろにして、師弟という人間関係が法(教義)よりも重要で、それこそ仏法の究極だと言っていますが、これは創価学会の大きな矛盾点となるのです。
K氏は答えました。
「それは池田先生が言っている事が正しいに決まっているじゃないか」
私は続けて質問しました。
「それでは池田先生が言った”仏法の究極は師弟だ”という指導は、どこの経典、もしくはどこの御書に基づいて言われた言葉なのか教えてください」
これにはK氏は黙り込みました。K氏は御書もあまり読んでいないだろうし、経典なんて妙法蓮華経の方便品の一部と寿量品を声をだして読んでいますが、内容なんて理解していない事を私は百も承知しての質問なのです。
何故そう思ったか。それはK氏も一時期とは言え、私と広宣部の活動をしていた時期があったからです。彼が教学関係を勉強していない事は私は知っていました。
「いや、僕には池田先生の御心が判らないが、それは間違いない事なんだよ。」
私は続けます。
「いやいや区長、貴方がその立場でそれは通らないでしょう。何故なら千人を超える人たちに対して指導する立場なんだから、教学を知らないでは通じないでしょう。池田先生の指導でも、依処となる経文や御書が無いと、それは邪義であり破折しなければならない事を知らないんですか?」
するとK氏は開き直った顔で言いました。
「あー、うん判った。僕と君の信心の違いはそこなんだね。良いかい、信心とはね、例え池田先生が極悪人であろうとそれに付き従うのが信心なんだ。君はそれが理解できていないんだ。」
私は聞き返しました。
「それでは世間一般で言われるように、創価学会は”池田教”と言われても仕方がないという事になるじゃありませんか。それが仏教団体の信心なんですか?」
するとK氏はそそくさと帰り支度を始めて、帰ってしまいました。
これのどこが激励の姿なのでしょうか。でも今の創価学会に見える教学力の衰退は、既に十数年前から見え始めていた事なんですよね。
◆師弟不二の問題点
私は男子部で県幹部になった頃から、この師弟不二については大きな危惧を持っていました。
要は師匠である「池田先生」という名前を出せば、どんな無理無茶な話であっても組織の中でそれは正論として通ってしまうのではないかという事です。人の心は移ろいやすく、だからこそ宗教の基軸に据えるのは法であり、そこに釈迦の経典や日蓮の御書というものを置くから創価学会は仏教団体として言えるのであって、そこに「池田大作」というキャラクタを置いてしまうのは大いに危険だと考えていました。
まあ現実に今の創価学会の現状を見てみると、この私の抱いた危惧はけして間違っていなかった事を感じています。
正木氏の指導にしてもあまりに安直な歴史観だと思います。
確かに世界の宗教では数多くの組織内紛というのは発生しています。そしてその多くは確かに「教義論争」という形を取ってはいますが、実態は権力闘争であり、一部は組織内の利権争いです。そしてその口実として教義を持ち出し、争っているに過ぎないわけであって、けしてそこで起きている教義論争が本論では無いのです。
何故、こういった基本的な事を思慮できなかったんでしょうね。
結局、創価学会では「唯一無二の日蓮大聖人の仏法」を奉じた正義の宗教団体と言ってはいましたが、その内実は教義への関心は極めて低く、教義は単なる組織のアクセサリー程度のものでしか無かったという事なんでしょう。
これはダブル・スタンダードですよね。
2014年11月に創価学会は会則改正に伴い教義改正を行いました。
それが十年以上経過した今頃になって、組織内で波紋を呼び始めているのも実に滑稽な姿なのですが、そこの淵源にも、このダブル・スタンダードな姿が見えたりします。