自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

牧口常三郎について①

私は活動を止めた時、「池田大作という人物像を知りたい」と思い、様々な情報収集をしてきました。それは単に文献を当たると言うより、どちらかと言えば池田大作という人物を知る人、またより近い人から話を聞くという事を中心に行ってきました。

そこで知りえた事の要点については、このブログでも少し書いてきました。また傍証的な様々な話も聞きましたが、それに関してはこのブログで書くことはしません。一つ言える事は、私がこの調べる中で感じた事は、故・石原慎太郎氏(元東京都知事)の言う「偉大なる俗物」という言葉が一番池田大作という人間性を的確に表現した言葉だと理解したのです。

創価学会では2002年3月28日に会則を改定し「『三代会長』は『永遠の指導者』」と決定しました。そして「三代会長』に貫かれる師弟不二の精神と広宣流布実現への死身弘法の実戦こそ『学会精神』であり、永遠の規範である」と述べています。

ここからすれば初代牧口会長も、二代戸田会長も共に「永遠の指導者」という事になるわけですが、実際に創価学会の中では池田大作氏がクローズアップされているだけであり、牧口会長や戸田会長の事はあまり知られていません。まあ触り程度の情報については教えられているのですが、細かい事を知っている会員幹部は極めて少ないと思います。

創価学会という組織を理解する上で、やはり「永遠の指導者」についても知っていた方が良いでしょう。そこでここではまず初代会長の牧口常三郎という人物像について、判る範囲でまとめてみたいと思います。

牧口常三郎会長

創価学会では初代会長を牧口常三郎と教えています。しかし細かい事を言えば、牧口常三郎氏は初代会長とは言えない部分もあるのです。

牧口常三郎氏は「創価教育学会」の創設者であり、この会では設立当初は教育者を中心とした団体として設立されたのであって、今の創価学会とは異なるものでした。しかし後に宗教色を強めていき、戦後に戸田会長はそれを創価学会と名称改正して再建しました。そういう意味で私は創価教育学会と創価学会は異なる組織だと捉えてます。

またこの創価教育学会の設立日は、創価学会では11月18日と教えていますが、実は設立日について明確には判っていません。創価学会では牧口常三郎氏が「創価教育学体系」発刊日を以って設立日としていますが、それは単なる憶測でしかなく、明確にその日が会設立だという記録は無いようなのです。

この牧口常三郎氏について、戦後に行われた追善法要の際、堀米尊能師(六十五世大石寺貫首)をして「自解仏乗の人であった」と言わしめています。ここでいう自解仏乗とは自ら悟りを得た人という意味ですが、果たしてそうなのでしょうか。そこも考えてみたいと思います。

◆生い立ちについて

牧口氏が生まれたのは1871年(明治4年)です。当時の日本はまさに明治維新を過ぎて近代国家の道を歩み始めた時期でした。

生まれは柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市)で、父は渡辺長松、母はイネの家の長男として誕生しました。出生名は長七。1877年(明治10年)の時、父親の妹が嫁いでいた牧口善太夫の家に長七は引き取られたと記録がありますが、これは恐らく長松の家が貧しかった事によるものでした。ここで牧口姓となった牧口長七は、1878年(明治11年)に尋常小学校に入学、そこでの成績はかなり優秀でした。1882年(明治15年)11歳で尋常小学校を卒業すると、周囲からは進学を進められましたが、それを断り牧口善太夫の下で働いた様です。

1885年(明治18年)14歳になった牧口長七は、恐らく柏崎県で仕事も少ないという事もあったようで、単身、北海道にわたりました。当時の北海道は開拓期であり、恐らく牧口長七は新天地に自身の夢を見て渡ったのでしょう。

牧口長七は北海道の小樽の地で小樽警察署の給仕として働きました。仕事の合間には必ず読書をしていた姿を見て、警察官は誰となく彼を「読書給仕」よ呼び親しんだと言われています。

そして1889年(明治22年)に小樽警察署長であり小樽郡長を兼ねていた森長保の推薦により、牧口長七は札幌にあった北海道師範学校に入学しました。この北海道師範学校は後に北海道尋常師範学校(現・北海道大学)と合併し、1891年(明治24年)に牧口長七は三年に編入する事になりました。

この明治という時代について、小説家の司馬遼太郎氏は「国権は極めて重く民権は極めて軽い時代であった。」と言っています。例えば富岡製糸工場の女工哀史にあるような、悲劇的な庶民史のあった時代でもありました。しかしその反面、勉学で可能性がある若者は国の中枢を目指す事も可能という時代でした。そういう点では現在よりも若者に対して可能性が大きく開かれた時代であったとも言えるでしょう。「民衆の歴史というのは悲劇史のみではなく、そういう側面も勘案して考えなければ理解できない」と司馬氏も自著「坂の上の雲」に述べていました。

牧口長七も俊逸な人材だったのでしょう。この北海道尋常師範学校時代、札幌には新渡戸稲造が牧口長七が編入した同年(明治24年)に帰国し、道庁技師として帰国し着任しました。もしかしたらこの時に牧口長七と新渡戸稲造氏と面会していたのかもしれません。

1891年(明治25年)で教育実習で教壇に立ち、翌年には長七という名前から常三郎という名前を改名し、北海道尋常師範学校を卒業、母校である付属小学校に訓導(教員)として勤める様になりました。

牧口常三郎は教員としても優秀で、1894年(明治28年)で、文部省の行った「単級教授講習会」の北海道代表として参加しました。

この「単級教授」ですが、これは通常学年ごとにクラス編成するものでしたが、特に僻地教育などでは全学年を一つのクラスにまとめて教育を行う事で、当時の北海道は確かに時代のフロンティアの土地でしたが、そこに中央官庁からの天下り、巨大財閥からの資本投下、そしてそこでは多くの庶民が貧困で喘いでいた時代でもあったのです。こういった北海道の現実に適した教授法が「単級教授」だったのです。

これはまさに司馬遼太郎氏の言う「国権は極めて重く、民権は極めて軽い時代」という言葉が重く伸し掛かっていた時代の姿がありました。

竹中労氏の「聞書・庶民列伝 牧口常三郎の生きた時代」を読むと、このあたりの状況が克明に記録されています。北海道に住む多くの庶民は極貧の中にありました。成績俊逸であり教育界のホープとして嘱望された牧口常三郎ですが、ここでこういった社会の姿に何をかんじたのでしょうか。彼自身も極貧の出自であり、僻地教育に若くして取り組む中で、世の中にある不条理にも多く遭遇し、彼自身、人生について思索を深めていったのかもしれません。

◆人生地理学

牧口常三郎が「人生地理学」を著したのは1903年(明治36年)、氏が32歳のときでした。この「人生地理学」とは、地理と人の人生には深い関係があるという事が書かれており、この書を校閲した志賀重昂氏(日本の地理学者であり教育者、後の衆議院議員となる)は以下の様に序文に文を寄せていました。

「昨命じ三十五年春夏の交と覚ゆ。新潟県牧口常三郎君なる人来たり、刺を通じ、初めて予を見、地理と人生との関係を著述するの志を述べ、既成の草稿厚さ六寸にあまるものを示し、かついわく、明治二十六年来、北海道師範学校に教職を奉ぜしも、この志を果さんため、三十四年職を辞し、もっぱらこれに当れりと。」

人生地理学には「物理と人生との関係を著述する」とある様に、単純な地理学ではなく、いわゆる哲学書に値する内容であったと言います。牧口常三郎はこの著作により後に新渡戸稲造氏や柳田国男氏との知遇を得る事になり、日本の歴史の舞台に登場していきました。

この「人生地理学」を詳細に説明すると、このブログのページでは紙片が足りなくなってしまいます。以下に実践的思想家と言われる池田諭氏のホームページを紹介しますので、お時間のある方は「牧口脛三郎>第二章 教育の世界」に概要がまとめられていますので、参照してみていください。

https://www.asahi-net.or.jp/~kd6k-ymmt/index.html#%E7%9B%AE%E6%AC%A1

(池田諭のホームページ)