牧口会長の事について、創価学会では永遠の指導者としながら、その実像を伏せている個所は多くあります。最近になってネット上でこういった情報が漏れ出てくる様になった事から、後手の様に様々な事を創価学会として論及しはじめていますが、それは論及しているというよりも、とりあえず取り繕っているというレベルの内容です。
しかし自教団で「永遠の指導者」と大層に呼ぶのであれば、事実は事実としてしっかりと組織内にも周知すべきだと私は思うのです。
◆大日本皇道立教会
まず下の写真を見てください。

これは大日本皇道立教会の会合の写真と言われていますが、後列左側に立っているのは牧口常三郎です。また後列右から二人目は、後に右翼のフィクサーと呼ばれた児玉誉士夫です。
この写真の前列中央に移っているのは「秋月翁」と言われていますが、これは三代目会長の秋月左都夫です。この人物は司法省に入省しましたが後に外交官に転身し、スウェーデン公使、駐ベルギー大使、オーストリア特命大使を歴任後、大正三年(1913年)に退官した人物です。恐らく写真はその年代以降のものと思われます。また児玉誉士夫も若い年代(児玉氏は明治四十四年生まれ)の様なので、そこから察すると、この写真は大正から明治に移り変わる頃の事では無いかと思われます。
この大日本皇道立教会の目的は「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨」として設立されたと言われていますが、設立された明治四十四年には天皇暗殺を企てて幸徳伝次郎、菅野スガら十二名が処刑されるという事件が発生しています。(大逆事件)
この事件の背景には南北朝という事から今上天皇の正統性に対する問題がありました。幸徳秋水が主張したのは「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」という事で、この発言が法廷で為された事をキッカケに国定歴史教科書「南北朝正閏問題」がおこる事になりました。
こういった南北朝をめぐる教育問題が背景にあって、大日本皇道立教会が設立されたのではないかと思われます。牧口常三郎も教育者でしたので、この教育問題の関係から関与していたと思われます。
牧口常三郎は教育者で、恐らく当時は白金尋常小学校の校長を勤めていた時代とは思われますが、先の人生地理学で新渡戸稲造や柳田邦夫、また国粋主義者の志賀氏など、当時あったと思われる幾人かの人脈を通じてこの大日本皇道立教会に参加していたのでは無いかと推察しています。
ネット上を中心に創価教育学会の母体がこの大日本皇道立教会だという説もいわれていますが、私はそのように思いません。確かにこの写真に写っている秋月翁などが創価教育学会の設立に関与したという話しもありますが、それはこの大日本皇道立教会で得た人脈を牧口常三郎が頼ったということであって、その事が即、この教会が創価教育学会の設立につながるとは到底思えないのです。
ただし大日本皇道立教会から垣間見えるものは、牧口常三郎の持っていた人脈というものであり、それは恐らく牧口会長の時代から戸田会長、そして池田会長から現代に至るまで影響を与えている可能性は否定できないと思うのです。
◆国柱会への接近
この時期の牧口常三郎の行動というのは、実は明確に判っている資料を私は見つけられませんでした。ただ大正時代の牧口常三郎は、田中智学が主催する「国柱会」に接触していた事が、前の記事で紹介した竹中労氏の「聞書・庶民列伝 牧口常三郎の行きた時代」に書かれていました。ちなみにこの牧口常三郎と国柱会の繋がりについては、創価学会の公式見解には一切載っていません。

ちなみに国注会とは何かといえば、田中智学が創設した在家仏教団体です。宗門の妙観講機関紙の「慧妙」などでは、牧口常三郎が国柱会へと聴講に通った事実を取り上げ、いかにも牧口が国粋主義者であり軍国主義者であるかと取り上げていました。しかしこれは私から言わせれば時代というのを理解していない稚拙な言いがかりであると言わざるを得ません。
この国柱会ですが、日蓮宗の僧侶であった田中智学が還俗(僧侶をやめ在家の立場に戻る事)して在家という立場から日蓮宗の伝統的な宗門を改革し、近代的な在家集団を目指して設立した団体でした。国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものだったのです。
教学における国柱会は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれていますが、分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としていました。
こういう話で天皇や皇室が出てくると、さも右翼だとか好戦的な団体、人物だとか、とかく短絡的な評価をされてしまいがちになりますが、少し落ち着いて考えてほしいのです。
そもそも江戸幕府を倒し、明治政府が日本を近代国家にするために、天皇の元に新政権をつくったのが明治という時代でした。つまり天皇とは新時代の象徴であり、近代国家日本の中心的な存在でした。皇国史観という言葉もありますが、その善悪はさておき、当時の明治の人たちの中にある天皇や皇室への想いというのは、現在考えられているものとは異なるものであると理解する必要があるのではないでしょうか。
今の日本の主流になっている天皇・皇室観とは太平洋戦争が終わり、GHQが日本占領の際に「植え付けられた観点」でしょう。象徴天皇制というのは、そういった事から出来上がった考え方ではないでしょうか。そもそも日本という国は、自分たちが過去に起こした戦争に対して総括もせずに戦後数十年間の間、ただ経済優先で走ってきたしまいました。
そういう感覚だけで当時の日本を語り、牧口常三郎を語るというのは、まさに「偏狭な視点」をもって牧口という人物を見ることであり、その視点では人物を正当に評価する事は出来ないと思うのです。
少し話がずれてしまいましたので、話を元に戻します。
牧口がどの様に日蓮の事を知ったのか、それを示す明確な資料が今のところ手元にないので解りません。ただ牧口常三郎は自身の思索の先に「人生地理学」を著述しましたが、日蓮は「立正安国論」を著述して鎌倉時代を生きていきました。共に国土を考える生き方から牧口が日蓮に対して強いシンパシーを抱き、その日蓮を知るために国柱会に近づいたと考える方が自然な事だと思うのです。