
私は他のブログサービスで2019年11月から記事を書いていて、それが710本ほどあります。現在、その記事内容をこちらのブログへと移行しているのですが、この710本の記事にもさまざまなものがあって、いま改めて読み返すと、要るもの、不要なもの、もう少し推敲が必要なものがありますので、日々それを空き時間でこなしている処です。
ここ最近、公明党の「裏金議員推薦」でXには色々な言葉が溢れかえっています。あとこれに「教学要綱」に関する事も相まって、まあ見ていると差し詰め百鬼夜行ではないかという状況に見えています。
この公明党の動きを私は見て思ったのは「2024年の総選挙で公明党は何を学んだのか」という事です。
先の総選挙では何より党代表の落選もそうですが、大阪の4選挙区も全滅という結果で、その要因として「クリーンな政治をアピールしながら、自民党も公認していない裏金議員を推薦した」と言われていました。それと同じ愚行を今年の都議選や参議院選挙に向けて、また平気で繰り返す事が出来るのは、正直、これは政党としての体質に問題があるというのは明白に判る事ですよね。
大阪で先の総選挙で落選した某元議員などは、ユーチューバー気取りで動画配信しては、それをXに投稿し、他の公明党議員もXへの露出度を高めていますが、これは偏に選挙で当選を意識しての事でしょう。でもこの党の根本体質(宗教団体依存)が改善しない限り、いまある退潮機運を変える事は出来ないと私なんかは思うんですがどうでしょうか。
◆さて、本題
私が創価学会の活動を止めた時の状況について、前の記事に書かせて貰いました。
その当時、活動を止めたは良いが自分の中には葛藤がありました。
何せ四半世紀に渡り「この御本尊様を抱き続けて行けば人生に行き詰まりは無い」と真面目に信じ、「池田先生は世界の偉人で、自分はその指導の下で生きていく」なんて決めて生きてきたんですから、それを止める事は実にこの先の人生に大きな不安を抱え込む事になっていたんですね。
まー、今から考え直すと赤面の至りなんですが。
でもこれは極端に精神に負担がかかる事で、当時の私は人間不信にもなりはじめ、全てに対して自信を喪失していました。
「創価学会の周辺にいる幹部は悪であり、池田先生は今の組織を望んでいない」
こんな事も当時は真面目に信じていたんですよ。だから活動を止めても勤行と唱題はしていましたし池田氏の著作物は読みふけっていました。要は「活動家」ではなく「屹立した信仰者」を模索していた。そんな時期だったのかもしれません。
そんなある時、当時ネットで知り合った関西の婦人部の方がいたのですが、その人が創価大学のスクーリングで八王子に行くので、少し会いませんかとのお誘いを受けたのです。この婦人の方は40代で婦人部の活動を止め、某ブログ(創価学会の現状を語り合う場)に頻繁に書き込みをしていたのですが、そのブログを通して知り合った人でした。
約束の日、指定された時間に八王子のファミレスに行くと、その婦人は居ました。仮にNさんとしておきましょう。小柄ですが結構物事をしっかり語る人に見受けられました。
挨拶もそこそこに、創価学会で活動する中でお互いに感じた事、考えた事を語り合いましたが、この時、私はおもいっきり自分の中にある「池田大作」という人物像を壊されました。
私も青年部時代には、一応、分県青年部長をしていましたので、池田大作という人物の思想や経歴等については、それなり理解しているという自負を持っていました。でもこのNさんの持っている池田大作という人物像は、実にリアルで実際の逸話に基づくものだったのです。
要は私の持っている池田大作という人物像には、徹底してリアリティが無かったんですよね。それをここで思い知らされました。Nさんは関西の婦人部の人ですが、池田大作をリアルに知りうる環境に居たわけですね。
「私がこれまで信じてきた事って、一体何だったのだろうか」
Nさんとの面会を終えて帰路に着く中、私はこの事をずーっと考えていました。私は組織の中で様々な会合の中、例えば正木副会長(当時)もそうですが、長谷川理事長、その他名の知れた諸々の副会長などから、多くの池田大作という人物の話を聞かされてきました。しかしそれは嘘も混じっていた、いやいや、嘘というよりも多くの虚飾が混じっていた情報だったんですね。だからNさんの池田大作像には叶わなかった。
そういう事だったんですね。
そこから私の中で「実際の池田大作の人物像を知りたい」という欲求が強くなりました。それがその後に様々な機会で様々な人と会い、意見を交わす中で再構築する事が出来て現在に至っている訳です。
これは日蓮に対しても同じです。
私は青年部の時、いちおう青年教学一級で、広宣部もやりながら御書は常に目を通してきました。会合に行く際には、話す内容について推敲しながら、それに合致する御書はどこにあるのか、何て探し読んだりもしていました。
そのせいもあって、青年部時代に使っていた御書は母から譲り受けたものですが、今でも目の前の本棚にあってボロボロの姿になっています。これは常にカバンの中に入れて持ち歩いていましたからね。
男子部では県教学部長もしていたので、月一回、信濃町で行われる首都圏教学部長会にも参加して、そこで教学部長から様々な事を聞いても居ましたが、これにしてもあまり意味がある事ではありませんでした。
前の記事で、友岡雅弥氏と会った事は書かせてもらいました。
この時、友岡雅弥氏から「仏法は勝負というけど、あれは勝ち負けの事を言っている御書ではない」という話を聞き、実はこの御書(四条金吾殿御返事)の中で、その言葉の先に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」とある事を教えてもらい、要はどこまで行っても道理(常識)の中で、理不尽な状況を挽回する事が大事とあると教わりました。
池田氏は「正義必ずしも勝つとは限らぬ。肝要なのは正義なるが故に断じて勝たねばならないという強き一念である(要旨)」と、その勝負感を語り、この「仏法は勝負」という事を常々言っていましたが、それは日蓮の本意とは違うという事だったのです。
こなると今まで学んできた御書についても再度読み直しをしなくては解らないし、そもそも日蓮という人物は如何なる人物であったのか、そこも見直しを掛けなくてはならないと思いました。
以前にこんな話を聞いた事があります。
作家の遠藤周作氏は、自身の信仰してきたキリスト教の信仰を一旦破壊してから、自分自身の中で再構築した。こんな話です。
これは恐らく1966年3月に刊行された「沈黙」に基づく事なのかと思いますが、自分自身が長年信じてきた事を一旦リセットして、再度、自分の中で構築しなおす事で、より自分の中の信仰が確固たるものになるという事なのかもしれません。
ただこの日蓮の人物像や歴史というのは、池田大作という人物とは比較にならない位、大変な事でした。何故なら700年という時間が横たわっていて、そこには様々な人師・諭師もいますので、これはこれで半端ありません。
とりあえず出来る事は、御書を再度読み直してみる事。その際には学会書籍の講義書などは一切みずに、まず素のまま読み込み、そこから意味を理解していく事にしました。また歴史的な事については、様々な書籍類もありますが、読めるものは一通り読んでみる事と、あとこれは気持ち的な事かもしれませんが、史跡も直に回ってみる事にしました。
こんな感じで活動を止めた後、数年間は費やしてきたと思います。そして結果が今の私なのです。
◆いま創価周辺を見て思う事
Xを中心に創価周辺は様々な意見が溢れかえっています。
特に目につくのは、教学要綱をきっかけとして教義論争。これはあまりに稚拙すぎますね。創価学会のこれまでの教学の基本は日寛師の教学で、そこにある中古天台の臭みのある教学を中心としてきました。遠藤氏の論文についても論点の基礎はそこにあって、それに対して無分別な教義改正を行った事について疑義を上げていると私は理解しています。
この無分別さを指摘するのは的を得ていると思います。
しかし疑義を上げるのは良いのですが、そもそも日寛師の教学の問題点について、どの様な解を持っているのか、そこについては全く見えません。また遠藤氏の事を批判する論もありますが、そこにあるのはあまりに浅薄な内容にしか見えません。
また教学要綱の事をあげつらい、また昨今では公明党の裏金議員の推薦を取り上げて、信濃町執行部を極悪と指摘し、池田氏への原点回帰を述べる意見も良く見受けられますが、いまの信濃町執行部の面々が、一番、池田氏に近くいた人物たちであり、彼らが極悪というのであれば、そもそも池田氏の師匠としての資質はどうだったんですかね?
この池田氏の過去の発言も二転三転している状態ですから、この池田氏の過去の言葉を振り回して組織改革だとか、今の執行部や公明党が悪いと責め立てた処で、そこに一体どんな意味があるのでしょうか。
いずれにしても「根問い」という観点が著しく欠如していて、底が浅い議論に終始しているなと私からすれば感じているのです。
創価学会や公明党に少しでも疑念を感じたのであれば、まずは自分自身が今まで「依って立つ処」にしていた事を見直す事に、時間を費やした方が良いと思うんですけどね。それが出来ないのであれば、黙って創価学会や公明党に使役される立場に甘んじるべきではありませんか?
上にも書きましたが、私はその事に数年という時間を費やしてきました。自分自身へ省みる事なしに、ただ互いに非難合戦していても、それは人生の時間の使い方として、あまりに無駄な事だと思いますよ。
あともう一つ。
宗教というのは社会的組織でもあります。という事は、そこで教えられる教義にも、当然「組織」としてのベクトルが付いているのです。過去の創価学会や池田氏の語る内容を振りかざすのはいいのですが、そういったベクトルをどこまで理解して過去の発言や教えを使っていますか?
こういった事はXの場では語れません。あそこはあくまで「呟き」が主体であって、自分自身の考え方を表明するには不向きな媒体ですからね。だから記事としてここで少し書かせて頂きました。