◆三谷素啓氏との出会い
牧口常三郎が日蓮正宗に入信したのは昭和三年(1928年)、三谷素啓という人物から折伏されたという事です。創価学会ではこの人物については詳細に語られていません。一部の資料では「常在寺に属する『大石講』の幹部」とだけ記載されているに止まっていますし、小説人間革命にも当然描かれていません。
三谷素啓は明治11年8月1日生まれで、本名は三谷六郎といい、牧口常三郎より7歳下で、目白商業高校(現:目白研心学園)の初代校長でした。

三谷素啓氏は1915年(大正4年)に禅宗を捨てて日蓮正宗に入信しました。時の日応上人から御本尊を受けたと言われています。この当時、三谷氏は37歳でした。
この三谷素啓氏について調べてみると、興味深い記事がありました。
〔柳田国男と北山本門寺のことなど〕 : 大木道惠の創価学会問題とその周辺
このブログ記事には、柳田國男氏が「故郷七十年」でこの三谷素啓氏について触れている場所がありましたが、そこにある三谷素啓氏の評価は「どうも正体の判らない変った人物で、盛んに嘘をついた。」というものでした。柳田國男氏は同著の中で「富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した。」書かれています。これは大石寺に入信する以前に、牧口常三郎は重須にある北山本門寺に顔を出していたと言う事で、これは興味深い話です。
どうやら北山本門寺では、早川逹道師を訪ね自身の価値創造論と日蓮教学の関連性を自論で展開しますが、早川師からは「貴方の考え方は日蓮聖人の考え方とは違う!」とあっさり断られてしまったという話がありました。
この三谷素啓氏により折伏をされ、牧口常三郎氏は日蓮正宗に入信しました。この入信動機は以下のものであったと言います。
①釈迦が説いた釈迦滅後の仏教変遷の予言が日蓮によって実証されたこと
②正しい宗教(法華経)に基づく人間変革を基盤に社会を変革するという「立正安国」の思想に強く感じるところがあった。
この日蓮正宗に入信した事から、創価教育学会の設立につながり、後の創価学会へと通じていく事になります。ちなみに牧口会長が日蓮正宗に入信した時、そこには戸田氏も牧口氏のそばに居たようです。それは「映画・人間革命」にも以下のシーンがありました。
牧口 「戸田君、ぼくは日蓮正宗に入信した」
戸田 「えっ!?日蓮正宗?」
牧口 「目白商業の校長に三谷素啓という人があり、ぼくの価値論に対しかねがね話し合いたいと聞いていたので遭ってみた・・・ まるでそれは真剣勝負だった・・・だが、私は負けた・・・」
戸田 「えっ!?」
牧口 「これは哲学を超えたもう宗教の問題だ!日蓮正宗にはなにが大善であり、あらゆる一切を変えていくもの、それが何であるかをハッキリ示している」
牧口 「とにかく君も入信しなさい!」
創価学会では「歴代三代の死身弘法の精神・・・・永遠の指導者」と定めていましたが、実は初代会長という牧口常三郎氏の入信周辺の行動については教えていません。この時期の動きは牧口常三郎という人物の原点とも言うべき出来事なのですが、何故そこを会員に教えないのか、そこには今の創価学会にとって都合が悪いという事があるという事なのかもしれません。
◆創価教育学会の設立
創価教育学会の設立時期について、これは「創価教育学体系」第一巻の発刊日が昭和五年(1930年)11月18日となっています。これは発刊元が創価教育学会となっていることから、それが設立日とされているのです。
この時の発行者の住所は「東京府荏原郡大崎町(現在の品川区大崎)」となっていて、発行人は「戸田城外」となっています。つまり発行者は戸田第二代会長で、この発行者の住所は戸田城聖の自宅の住所なのです。
本来ならば設立総会などを経て設立されるものだと思いますが、そうではなく書籍の発刊日と発刊元をもって設立日としているのです。これに私はやはり違和感を感じてしまいました。

この創価学会の設立に際して、「創価教育学支援会」というものが発足されていますが、そのメンバーが早々たる名前が連なっています。
政友会総裁 犬養 剛
元文部大臣 水野錬太郎
商工大臣 俵 孫一
前東大教授 新渡戸稲造
民俗学者 柳田國男
この支援会にはキリスト教徒も含めて二十八人の名前がありました。牧口常三郎はこの発刊日の二年前に入信したと言われていますが、この支援会の名前に三谷素啓の名前は入っていません。
この創価教育学体系の第一巻には宗教的な記述はなく、当然、日蓮の言葉もありません。この事については創価大学の教育研究第11号の「牧口常三郎の信仰と創価教育学」という熊谷一乗氏の論文に以下の様に書かれていました。
「入信と第一巻の刊行との関係が具体的にどのようなものであるかについては、現在のところ、確かなことはわからない。というのも、「体系」の第一巻には、まだ法華経や日蓮の「御書」を学んだ跡はうかがわせるような内容は見られず、宗教についてはきわめて一般的にしか語られていない」
これに関しては興味深いエピソードがあるので、以下に紹介します。
「第一巻の原稿を整理し、絞閲、編集、出版の責任を担い公表したのも戸田先生だからである。このように戸田先生が牧口先生の膝下で文字通り大車輪の活躍をしていた1930年(昭和5年)2月、牧口先生と話すうちに、談たまたま牧口先生の教育学説の話題に移った。このころには牧口先生はすでに(創価教育学体系)第一巻の原稿を終え第二巻以降の構想を進めていた。ただし、牧口先生の原稿は小学校較長の執務中、暇を見つけては反古紙などに筆記してあったもので、書物として出版するにはそれを整理することが必要であった。
またこの段階では、牧口先生自身まだ新しい教育学説の名を決めかねていたと言われている。牧口先生は戸田先生に意中にある構想を伝えた。牧口先生が(人生地理学)発刊以来教育の目的を追求するうちに、人格価値の本質に突き当たり、「価値」とは「何か」について15年間の思索に思索を重ねついにドイツ流の「真」、「善」、「美」の価値論は誤りで「利」、「善」、「美」の価値論に到達したことなどを語ったという。」
ここで第一巻の原稿は、牧口常三郎が校長時代に書き溜めた原稿があって、それを整理して出版に至るまで行ったのは戸田城聖であった事が解ります。また「創価」という言葉も牧口常三郎と戸田城聖の間で検討された事が伺い知れます。また出版に関する出費は全て戸田城聖氏が担っていたと言われてもいます。その事を考えたら、創価教育学会とは、牧口常三郎氏と戸田城聖氏により設立をされたと言っても良いでしょう。
この様に歴史を見ていくと、創価教育学体系の発刊日を創価教育学会の設立日だとしていますが、創価教育学会の組織として言えば、実は創価教育学体系の発刊日などではなく、実はこの後に書きますが、長野教員赤化事件でその組織の活動が見えてき始めました。
また創価教育学体系発刊後の1932年には、三谷素啓氏が直達講という信徒団体を立ち上げる際、牧口常三郎はそこに関与しています。この直達講ですが、同年7月に三谷素啓氏が亡くなった事から9月に解散となっていますが、創価教育学体系の発刊日を創立日にするのは、こういった歴史的な事実からも考えて、やはり後付けであった事が伺えます。