自燈明・法燈明のつづり

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牧口常三郎について④

◆長野教員赤化事件への関与

この事件と創価教育学会の関与について、いま創価学会の活動家の中で知っている人はまずいないでしょう。これについて創価大学の宮田幸一教授のホームページを見てみると、この事件に関する事を「牧口常三郎全集」に掲載する事を、野崎勲副会長(故人)が「これはまずすぎる」として削除を命じたとありました。

私自身も創価学会の活動家の時代には、この話は全く聞いた事もありませんが、実際にこの時の内容について知ると、とても興味深い事が解ったりしましたので、今回はこの件について紹介したいと思います。

◆赤化青年について

創価学会の三代会長の池田氏は、創価学会は平和人権の団体であると述べ、その淵源を牧口会長の戦時中の投獄という歴史から導き出し、それをもってして「反戦・平和の組織である」と述べています。
しかし第三文明社発刊の「牧口常三郎全集」第9巻の「後期教育論」に未収録の創価教育学会機関誌「新教」の中には牧口常三郎の様々な論文がありますが、その内容を読んでみると、実はこの創価学会が作り上げている牧口常三郎像、創価教育学会像には少し異なる側面があるのが解ります。その一つが「長野教員赤化事件」への関与です。

ここにある論文を見てみると、創価教育学会はその活動の初期において、内務省警保局、警視庁労働課という、左翼の転向問題を扱っている治安機関と連携をとりつつ、長野県などで積極的に赤化教員(共産主義教員)の転向問題にも積極的にかかわっていた事が解るのです。

「長野教員赤化事件」とは、1933年(昭和8年)2月4日から半年あまりの期間、長野県で多数の学校教員が「治安維持法違反」で検挙された事件の事です。弾圧の対象となったのは日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及びましたが、特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模であり、全検挙者数608名のうち、230名が教員でした。

もともと長野県では、大正時代から白樺派などの影響を受けた自由主義教育が盛んでsたが、1930年代に入ると、そのような伝統の上に、左翼的教育運動である新興教育運動が広がりを見せるようになったのです。1931年秋には新興教育研究所(新教)の支部が伊那と諏訪に設けられ、1932年2月には、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本一般使用人組合教育労働部長野支部が結成されたのを機に、新教の2支部は統合されて長野支部とりました。

百数十名の教員を組織したこの運動は、教育理念や教材について、例えば、アララギ派、三沢勝衛、木村素衛などを俎上に載せた組織的批判活動を展開し、組合員ではない教員にも影響を及ぼすようになって行きました。新興教育運動は、マルクス主義ないし弁証法史的唯物論を掲げた左翼運動でしたが、細野武男の回想によれば「さるかに合戦一つを説明するのでも階級闘争やと言って説明」するようなものであったと言われていました。

二・四事件で弾圧された教員の多くは、子どもたちや父母を始め、周囲から信頼されていた優れた教員でした。このため、例えば、7名が逮捕された木曽地区の中心人物であった日義村の日義小学校の名取簡夫(なとり ふみお)が検挙された後、名取を慕っていた生徒たちの間に「同盟休校」を行い、警察書に出向いて名取の解放を求めようとする動きなども起こったそうです。

しかし、二・四事件の弾圧によって、長野県の教育は、新興教育のみならず自由主義的伝統も失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになっていきました。

創価教育学会の関与

こういった事件に対して、創価教育学会及び牧口常三郎はどのように関与して行ったのでしょうか。まず先の全集未掲載の機関紙「新教」の中には以下の記述がありました。

「赤化事件に関係した禍によって郷里の教育家からいつまでも疑ひの目を以て見られ、悲惨な生活を送って居る在京者の四君が不思議な因縁によって本会の正会員となり、半歳余り創価教育学の科学的研究から、遂に宗教革命にまで徹底した結果、茲に完全なる転向が出来、明朗勇敢なる生活に復帰したことを赤裸々に郷党に報告して謝罪すると共に同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て、それらの四名と共に余は某県に旅行して左の如き講演をして帰京した。」

ここでは共産化した4名の教員に対して、創価教育学会に入会をさせ、思想転向をさせた事についてここでは書かれています。いわゆる「逆オルグ」と呼んでも良いでしょう。この赤化事件の関係者にはどの様な人物がいたのかについて、以下の人物ではないかと言われています。

 ●矢島周平
創価教育学会幹事)
 ●渋谷信義
創価教育学会『新教』編集部)
 ●小林済
創価教育学会『新教』編集部)
 ●土岐雅美
創価教育学会研究員)
 ●石沢泰治
創価教育学会研究員)
 ●高地虎雄
創価教育学会研究員)

牧口常三郎は彼らをどの様に転向させたのでしょうか、新教では「不思議な因縁」とのみ書かれていますが、この内容については創価学会の過去資料の中には以下の記載があったので紹介します。

「その矢島は昭和10年の正月、親友に連れられ、牧口常三郎と会った。
「私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ」
矢島は度肝を抜かれ、3日とおかず牧口宅を訪ねる。
3カ月ほど続いたころ「恐れ入りました。長い間ありがとう存じました」。
帰ろうとする矢島を「待ちなさい。初対面の時の約束を、よもや忘れはしないだろうね」と牧口は制した。
矢島は学会員となった。
それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」

この部分は矢島周平氏牧口常三郎と面談した昭和十年の当時の話です。彼は昭和8年2月17日に検挙され、7月31日に退職となっています。その後昭和十年に渋谷信義氏に連れられて、牧口常三郎に面会し折伏され、それから三か月ほど後に創価教育学会に入会したと言います。牧口常三郎は、その矢島氏を警視庁の労働課長、また内務省の警備局長の下に連れていき転向した事を伝えたました。

その後、新教では「某県」と書かれていますが、それは長野県の事であると容易に推測できます。この機関紙の新教では「同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て」と書かれている部分もありますが、これは恐らく赤化事件で検挙された仲間たちを折伏へと行った事なのでしょう。この事について、新教ではこの文書の後段で以下の様に述べています。

「吾々は先づ内務省警保局、警視庁労働課長等を数回訪問、関係教育家等と懇談して少からず感動を与へ、内務省より郷里の警察部へ特別電話までかけて貰ったこととて、万事に都合よく完全に予定の目的を達したものである。」

つまり赤化した教員たちを創価教育学会に入会させ、そこで思想転向させた事を内務省や警視庁など関係各所に紹介し、まさに「逆オルグ」を進めたという事なのです。

ここの矢島周平氏とは、後に牧口常三郎と共に特高警察に逮捕され拘留されましたが、その後、免訴され昭和24年には機関紙「大百蓮華」の編集長となり、戸田城聖氏が理事長を辞任した後には、後任の理事長に就任した人物です。

ちなみにみ戦前の牧口常三郎の行動について、創価学会でどの様に伝えていたのか。そこについては松岡幹也著の「論文牧口常三郎の戦争観とその実践的展開」というものでは以下の様に紹介されていました。

「かくして仏法に帰依した後の牧口は、国家超越、生存権の絶対的価値、生命尊厳という見地から戦争を罪悪として否定する確固たる思想的地盤を得た。」

これは果たして正確な言葉なのでしょうか。

牧口常三郎が警視庁労働課に訪問した際、完全なる転向(共産主義からの転向)について話し合った事を新教で述べていますが、そこで「三か条」として転向で求められる事について挙げています。

一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事。
これは明治時代から続いている日本の国体概念。つまり皇室を中心とした当時の日本社会と合致した日本精神を持つ事を言います。

二、あくまで合法的手段の生活をなすこと
次に遵法精神をもって合法的な生活をする事を述べていますが、牧口常三郎はそれだけでは足りないと、次の様に述べています。
「これだけならば気の抜けたビールのやうなもので、毒にはならぬが、薬にもならぬといふ非社会的の個人主義で、教育者としては最劣等級のものといはねばなるまい。」
その為に、次の一つを加えて論じています。

三、自己一身を衛れば足るといふ消極的の個人主義の生活を脱し、積極的に社会の指導に任ずるといふ愛国心に燃える事。
自己の一身を守るというだけではなく、積極的に社会の指導に任ずるという「愛国心」を持たなければならないと言う事を述べています。そしてこの「愛国」とは前段にある明治時代から続く皇室を中心とした日本国体概念を持つ日本社会に対する愛国ということに他なりません。

先の松本幹夫氏の論文では「仏法に帰依した後の牧口は、国家超越、生存権の絶対的価値、生命尊厳という見地」に立った人物だと述べていますが、この新教の論文に見える姿というのは、そのような現代的なマイルドさを持った人物ではなく、生粋の明治人であり、その根底には皇室を中心とした「国体観」を持った人物なのです。

またこのような時代に即した人物であったからこそ、当時の官憲に対しても感動を与えるようなことをが出来たのでしょうし、長野の赤化教員たちを創価教育学会に逆オルグする際に、少なからず官憲から協力を得る事が出来たのだと思うのです。

◆まとめ

私は以前、これは男子部の時ですが、アジアのとある国際会議の席上の話を、会合の中で学会本部から来た幹部指導で聞いた事があります。

それは日本の創価学会という宗教団体の参加で、アジアの人達は日本の戦争犯罪について指摘する事が相次いだそうです。その際、アジアのとある国の大学者は、創価学会について「軍国主義に反対し、初代会長は獄死し、二代目会長は投獄された団体だ」と言い、出席したアジアの人達は感激したと言うのです。

しかし牧口常三郎という人物は、本当に当時の軍部政府に対してアンチテーゼを以って相対したのでしょうか。それは軍部政府や当時の日本の国体に対してのアンチテーゼではなく、軍部政府が行った宗教思想統制に対するアンチテーゼだと思いますが、共産主義という思想統制に対する弾圧では、創価教育学会として内務省や警視庁などの官憲側に立って協力していたのは事実であり、そこは創価学会の会員にも伏せている姿だったのではありませんか?

この辺りはしっかりと、創価学会の活動家にも周知されるべき歴史的事実だと私は考えているのです。