
牧口常三郎の設立した創価教育学会ですが、昭和の時代に入り時代の波に翻弄されていくのです。
「赤化教員のオルグ」では警察庁、内務省との「蜜月時代」でした。そして昭和十四年(1939年)に麻布の菊水亭において事実上の第一回総会を開催しました。その中、日本は昭和十六年十二月に太平洋戦争に突入、戦争の進む中で思想統制を強めていきますが、昭和十八年(1943年)の五月に牧口が神社神道を批判してから機関紙「新教」が廃刊となりました。六月には大石寺に戸田理事長と共に牧口常三郎は呼び出され、鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受取けるようにしてはどうか」と申し渡されたがこれを拒絶しました。
そしてその後、同年七月に、伊豆下田での座談会開催直後、伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で、牧口常三郎は下田警察署に連行されてしまいました。
一時期は蜜月関係にもあった官憲により捉えられ、投獄された事はある意味で皮肉としか言えない事態であったと思います。
◆牧口が主張していた国家神道への批判
牧口常三郎は「大日本皇道立教会」へも参加し、一時期とはいえ田中智学の国柱会にも接近していました。また前章でも紹介しましたが、長野県であった青年教員赤化事件ではその赤化青年の逆オルグを行いました。その主張の中で創価教育学会に入会する事が「一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事。」と、それを転向の要諦として述べてもいました。
一体、牧口常三郎はこの戦争に突入した当時の日本に対してどの様な危惧を抱いていたのでしょうか。
まずは創価学会が述べている内容について紹介します。(要約的なものです)
日蓮仏法の探求を深めるにともなって、牧口は社会・生活の全般を改革する必要性を感じ、教育法の改革は、その一部であると考えるようになりました。創価教育学会は教育者以外の賛同者も増え、日蓮仏法の実践を主軸とする、宗教改革の団体となっていきます。
牧口は高齢にもかかわらず、自ら活動の先頭に立ち、北は北海道から、南は鹿児島まで足を運んで、一対一の対話を実践。会員は全国に4000人を数えるまでになりました。
しかし、第2次世界大戦への坂を転げ落ちる日本は、国家神道によって宗教・思想の統制を図ろうとします。創価教育学会の座談会なども、思想犯の摘発に当たった特高(特別高等警察)の刑事が厳しく監視するようになりました。
弾圧を恐れて国家神道を受け入れた日蓮正宗宗門を牧口は厳しく諌め、軍部権力と敢然と対峙していきます。1943年(昭和18年)7月6日朝、牧口は訪問先の伊豆で、治安維持法違反・不敬罪の容疑で検挙され、同日朝、理事長だった戸田も東京で検挙。ともに逮捕・投獄され、会は壊滅状態となりました。牧口、戸田は、厳しい尋問にも屈せず、信念を貫く獄中闘争を続け、牧口は1944年(同19年)11月18日、創価教育学会創立から14年後のその日、老衰と極度の栄養失調のため、拘置所内の病監で逝去しました。満73歳でした。
ここでは牧口常三郎は「国家神道によって宗教・思想の統制」に対して断固たる反対の態度をとった事により、治安維持法の不敬罪で特高警察に逮捕され投獄されたとあります。
ここだけを読むと、牧口は「思想・信教の自由」という基本的人権を守るために、当時の軍部政府に断固反対し、そのために獄死したという事だと読み取れます。ここにある創価学会の公式見解が、すなわち現在の創価学会の活動家会員達の理解している牧口常三郎という人物像なのでしょう。また創価学会はその牧口会長の崇高な思想を後継した組織として、中国や韓国を中心としたアジア各国の中でも厚く遇されているのです。
◆特高月報
特高警察に逮捕拘束されたのち、牧口常三郎の言動が克明に記録されたものがあります。それが当時の内務省が発刊していた「特高月報」というものです。これは現在でも自治体の中央図書館などへ行けば見る事が出来ます。
この月報の昭和十八年七月分に「創価教育学会本部関係者の治安維持去違反事件検挙」という記事が掲載されていますが、その内容についてここでかいつまんで紹介します。
東京都神田区錦町一ノ一九所在創価教育学会は、昭和三年頃現会長たる牧口常三郎が芝区白金台町小学校長退職後〔ママ〕、当時本名の盲信中たりし日蓮正宗(静岡県富土郡上野村大石寺を本山とす)の教義に特異の解説を施したる教理を創案し、知人たりし小学校教員等を糾合して創設せる宗教団体なるが、会長牧口を中心とする関係者等の思想信仰には幾多不逞不穏のものありて、予てより警視庁、福岡県特高課に於て内偵中の処、牧口会長は信者等に対し「天皇も凡夫だ」「克く忠にたどとは天皇自ら言はるべきものではない。教育勅語から削除すべきだ」「法華経、日蓮を誹誘すれば必ず罰が当る」「伊勢神宮など拝む要はない」等不逞教説を流布せるのみならず、客年一月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々員中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に言ふ曼茶羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払ひと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚しきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等婁々投書せる者ありて皇大神宮に対する尊厳冒涜並に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月七日牧口常三郎外五名を検挙し取調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外四名を追検挙し(別記参照)引続き取調べ中たり。
牧口常三郎が検挙された当時の日本は、軍部政府による「思想統制」が強まっていた時代です。
その中で「天皇も凡夫だ」という言葉がありますが、その後に「克く忠にたどとは天皇自ら言はるべきものではない。教育勅語から削除すべきだ」という言葉がある事から、これは教育者としての牧口常三郎の矜持から出た言葉にも見えます。
しかし「法華経、日蓮を誹誘すれば必ず罰が当る」「伊勢神宮など拝む要はない」という言葉、また「其の教説は日蓮宗に言ふ曼茶羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払ひと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し」という事は、日蓮正宗の教えそのままの行動に思えます。
しかしここで考えなければならない事があります。
果たしてここでいう「謗法払い」として「神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し」とありますが、牧口常三郎が大石寺に入信する以前、最初に訪れた重須本門寺には本化天照大神の社があります。あとこれはまだ確証が取れた話ではありませんが、明治期かそれ以前には。大石寺にも同様の社があったと聞いています。
そうなると牧口常三郎が唱えた「謗法厳戒」は、そもそも日蓮正宗の教えだったのでしょうか。
ここで少し考えなければならない事があります。それは牧口常三郎の「折伏親」と言われる三谷素啓の事です。彼は完器講の元メンバーでした。もしかしたら当初、牧口常三郎は国柱会で日蓮を知り、それをきっかけにして三谷素啓と面識が出来て、彼に折伏されましたが、その過程で完器講の流れを自身の教義へと取り込んでいったという事は考えられないでしょうか。
◆完器講とは
この完器講については、ちょっと別に掘り起こしをしなくてはならない部分もありますので、ここで詳細については割愛しますが、概要についてだけ軽く説明します。
完器講とは富士大石寺から分派した日蓮系仏教宗派と呼ばれています。江戸末期、堅樹院日好の流儀を信じる一派が起こした講と言われています。この堅樹院日好は日寛上人の教学に感銘した人物と言われています。
日好の教義の要点は 「大石寺は折伏をせずして、自行の研鑽に明け暮れているので法水が濁っている」 「四箇の格言を妙法と一緒に唱えることが大事である」 「我こそ大聖人・日興上人の正統である」 「御本尊は折伏を行ずる者の胸中にある」との「己心本尊説」 との4点でした。
この原理主義的な姿勢は、何か牧口常三郎の主張に似ていませんか?
その結果、当時の江戸幕府の「自讃毀他の説法御停止」の法令違反と断じられ、幕府からの取り締まり対象にもなり、信徒が流罪になるなど迫害を受けました。
ちなみにこの日好の門流から、日蓮正宗大石寺59世堀日亨、日蓮正宗大石寺62世鈴木日恭の二人の法主が出たとも言われています。
そう考えてみると、牧口常三郎が傾倒した大石寺の教えには、実はこの完器講の教えが入り混んでいて、それが故に牧口常三郎の原理主義的な性格を強くしていった。それが結果として思想統制を行う軍部政府の方針と折り合いのつかない状況まで行ってしまったという事も考えられます。
この記事の最初に取り上げた以下の部分ですが。
「六月には大石寺に戸田理事長と共に牧口常三郎は呼び出され、鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受取けるようにしてはどうか」と申し渡されたがこれを拒絶しました。」
この拒絶したという姿勢についても、既に大石寺の教学という事ではなく、完器講の流れを受け入れ、自身で構築した創価教育学会の教学に殉じたと言う事かもしれません。
そして創価学会として、この戦時中の牧口常三郎の獄死に至る過程で「軍部権力と敢然と対峙した」という姿勢だけを以って反軍事政権の立場だと会員には教えています。しかしそこに実は三谷素啓氏とのかかわりや、その背景にあった完器講については一切情報として触れさせてもいないのです。
ちなみに余談ですが。牧口常三郎が特高警察に逮捕されたのは「密告」によると言われていますが、その密告内容について特高月報では「甚しきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等婁々投書せる者ありて」と書かれています。
これは創価教育学会の信者となった奥さんが、旦那の留守中にその了解も得ず神棚を破壊した事から離婚問題に発展した事だとなっていました。これは現代でも問題になると思いますが、当時であれば猶更の事です。これが密告されたという事は、この牧口常三郎の「謗法厳戒」についても会内では完全に理解を得られていなかった事を示す証左かもしれません。
戦後も七十年を過ぎましたので、こういった事実についても、牧口常三郎の人物像を正確に理解する上で、創価学会の会員もそろそろ理解をしても良い時期にきたのではありませんか?