自燈明・法燈明のつづり

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戸田城聖について②

◆上京

家族に別れを告げ、戸田甚一は単身で上京し、川瀬蒼天の部屋(今の東京都新宿区早稲田鶴巻町)に下宿して転がり込みました。この頃の戸田の日記には以下のものがありました。

 「竜として臥せし真谷地を偲ぶ時 われを励ます子等の顔見ゆ」
 「愛着のきずなは何かいけにえの 玉となる身の今の嬉しさ」
 「暮らせかし千代の八千代も松の色変わらぬ顔と我は祈るそ」

当時の戸田は、真谷地尋常小学校の教え子に手紙と凧を送ったとありますが、卒業を待たずして去った事について、生徒に対して後ろめたさがあったのかもしれません。

またこの頃に母方の遠縁にあたる陸軍大将の邸を訪れましたが、よそよそしく扱われ、憤然として帰るという事もあったそうですが、おそらく上京して職を得るのに苦心をしていた事が伺えます。

牧口常三郎との出会い

この年(1920年)の春頃、当時西町尋常小学校(現在の台東区下谷)の校長であった牧口常三郎の自宅(目白)を訪問しました。自らの経歴や意見を述べ、教職への採用を願い入れたそうです。

この時、教育の実践と研究について長時間語り合ったと言いますが、牧口の信頼すべき人格にうたれ、以後二十三年間、共に入獄するまで牧口に直接師事する事になったのです。

この当時、牧口のはからいで西町尋常小学校の臨時代用教員に採用されるのですが、この当時の牧口は、地元の実力者の子弟を特別扱いしなかった事から排斥の動きが陰の東京市長といわれた政友会・高橋義信の暗躍で生じ始めていて、その影響もあって西町尋常小学校からの転任という状況でした。

戸田はこの牧口常三郎の転任に反対し、徹夜の留任運動を他の教員と共に行いましたが、結果として牧口は、三笠尋常小学校(現在の墨田区亀沢町)への転任となり、戸田もあとを追うようにして同小学校へ転勤したのです。

この頃より、戸田は開成中学夜間部に通うようになりましたが、この同級生に細井精道(後の66世日達上人)がいたと言います。この当時の戸田はまだ日蓮正宗に入信していませんが、何か人の縁の不思議を感じるエピソードです。

牧口常三郎が三笠尋常小学校から白金尋常小学校に移動となった時、戸田はそれまでの三笠尋常小学校を退職します。この退職の一月前に高等学校入学資格試験に合格していたのですが、退職した後、何故か道玄坂で下駄屋を始めます。この下駄屋を始める前に、浦田ツタという女性と再婚していますが、恐らく思うところがあって教員の道から商売の道へ路線変更をしたものと思われます。

その後、保険の外交員をやり、そこでは営業成績はかなり優秀だったそうです。

1922年9月1日には、関東大震災が起きました。

この時、戸田は嫁のツタの実家(新潟県)からコメを取り寄せ販売し、かなりの利益を上げたと言われています。その資金を得て後、時習学館を立ち上げます。しかしここから戸田の人生には不幸が訪れるのです。

1924年には長女の恭代を結核で亡くします。翌年に戸田は中央大学予科に進学しますが、1926年には妻のツタを結核で亡くし、自身も肺結核を患ってしまいました。

日蓮正宗へ入信

三笠尋常小学校を退職してから数年間、牧口常三郎とは行動を異としていたようです。牧口常三郎は教育者、戸田は実業家という方向で進んでいました。しかし戸田と牧口の縁が切れていたかと言えばそういう事ではなく、ちょくちょく合って親交は継続していた様です。

戸田は中央大学予科に進学した際、キリスト教に入信したと言われていますが、これはそれほど傾倒していた様では無いようでした。

1928年に牧口常三郎が三谷素啓氏の折伏日蓮正宗に入信した時、牧口常三郎の誘いで戸田も日蓮正宗に入信しました。しかしこの当時、戸田は日蓮正宗の信仰に熱を上げていたという節はあまり見えません。しかし1930年に「創価教育学体系」を発刊する際、その費用は戸田が負担をしていました。この年、戸田は「推理式指導算術」を発刊し、これがかなり高評価であった事もあり、資金にも余裕があった事から、牧口常三郎のスポンサー的な役割を担ったものと思います。また「創価」の二文字は、この当時、牧口常三郎と戸田の間で考えられました。

牧口常三郎は1932年に教職を退職し、日蓮正宗への信仰に入り込んでいきますが、この当時の戸田は事業拡大に勤しんでいた様です。

1934年には松尾幾子と再婚し、2年後には長男の喬久が産まれます。

牧口常三郎が1934年から、長野教員赤化事件で赤化した教員たちを「逆オルグ」し、それにより創価教育学会の教勢拡大を図る際、それを資金的にバックアップしたのは戸田でした。しかし1937年頃になると、戸田の資金もかなり底をつき始めた要で、当時の対物信用調査では、かなりランクが下になったと言われています。

しかし1939年頃から事業も順調に良きはじめ、そこから戸田は様々な会社を立ち上げて実業家として波に乗っていきます。

ちょうどこの頃、1938年。それまで教勢拡大が上手く行っていない事から「どうも折伏が思う様に進まない。そこで、先生は伝家の宝刀を出そうと言われ、罰論を中心に折伏で用いる様になった」(矢島周平氏談)とある様に、創価教育学会は折伏活動に罰論を取り入れ始めたと言います。

その中で戸田は実業家の仲間の間でも折伏を進め、創価教育学会の中では実業家グループも出来始めました。どうやら「功徳」と「罰」という言葉が、当時の実業家の中でも響きやすい内容であった様です。

1940年、牧口常三郎創価教育学会の会長に就任しますが、その時、理事長となり牧口を支える立場に戸田は着いたのです。理事長となった戸田城聖は、創価教育学会の中で主に実業家グループの中心者として動いていました。

1943年6月 牧口常三郎と共に日蓮正宗総本山の大石寺に呼び出され、そこで宗門からは「一応、創価教育学会としても神札を受けたらどうか」と言われますが、牧口常三郎は断固これを拒絶、その時の帰り道で戸田は「一宗が滅びる事ではない、国家が滅びることを嘆くのである。いまこそ国家諌暁の時ではないか。」と会話をしたのは有名な話です。

そして7月には牧口常三郎と幹部20名が治安維持法で逮捕され、投獄されますが、戸田もその中にあって逮捕されました。

この逮捕後、牧口常三郎は1944年11月18日に獄死しました。一方、戸田は翌年の1945年7月に豊多摩刑務所(現、中野刑務所)を生きて出獄したのです。