自燈明・法燈明のつづり

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戸田城聖について④

創価学会の第二代会長の戸田城聖について、今の創価学会が公開している情報は限られていますが、創価学会の公式情報以外にも、その実像が垣間見える資料は存在します。今回はそういった情報について紹介します。

◆映像とは何だろうか-テレビ制作者の挑戦- からの抜粋

・師子吼する教祖
日本のテレビドキュメンタリーの原点となった1957年放送開始の「日本の素顔」第1集では、さまざまな新宗教の説法をできるだけ多数、客観的に伝えることをめざした。

・「グイッとあけな」

幕あきは教祖であった。
飛ぶ鳥も落とさんばかりに教勢を拡大している新宗教の会長が、森羅万象を映像化しようと志した私の、最初の対象だったのである。
そして、想像もしなかったことばかりが起きた。
「グイッとあけな、グイッと」
「…いえ、これから撮影…。仕事中ですから」
「なにィ?それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要った。尋常ならぬ量のウィスキーなのだ。
こんなに荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しのビールを垂らして割って、机の上に溢れさせるのだ。その濡れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め!とこんどは大声の命令である。
縁側の籐椅子にただひとり坐って、親の仇のように矢つぎばやに酒をあおっているのは、創価学会第二代会長となって六年目の戸田城聖氏。
初代会長に牧口常三郎氏を立てて設立した創価教育学会を、終戦直後1945年に再建して創価学会と改め理事長となり、熱烈な折伏法華経の講義で多くの信者を獲得。51年に第二代会長に就任すると、さらに飛躍的に勢いを伸ばした実質的な教祖、早くも伝説的な存在となりつつある人である。
こちらはその年、1957年の11月から放送をはじめるテレビドキュメンタリーのシリーズ「日本の素顔」の第1集のテーマを『新興宗教をみる』にきめ、さまざまな教団のさまざまな説法を記録することにしたその撮影の初日で、富士大石寺日蓮正宗総本山を訪れたところであった。この夜、大講堂で行われる会長の法華経講義を、打ち合わせどおり所定の位置から撮影するからよろしく、という挨拶のため本部の建物に行ったのだが、まさか戸田会長の前に連れて行かれるとは予想もしなかった。ましていっしょに酒をのむ破目になろうなど、思ってもみなかったのである。
ひとくち飲んで不覚にもむせると、
「グイッとあけな」
と眼がすわってないる。ビールをあおりながらウィスキーをストレートでのむのを、アメリカでボイラーメーカーと呼ぶ、というのはのちに得た知識だが、ビールとウィスキーの量がこの場合逆転しているのだ。いかに教祖でどんな酒豪でも、酔わないわけがない。
仕事中だといいながら、どうしてこんなに暴飲するのか。―この人の、この姿こそ撮らなければならない、と突然考えついた。これを撮っておかないと、このあとの講義でその結果があらわれたとき、説明つかないだろう。さっきの、こっちだって仕事中なんだという言葉は、収録しておくべき大事な言葉だったのだ。
しかし、カメラも他のスタッフも既に大講堂で、戸田氏の到着を待っているところである。いまさら呼んできて、このシーンを撮るわけにはいかない。―そもそも、この姿を撮ることにOKが出るか?
こうして、私の(映像化)の歴史は、大いなる煩悶からはじまったのであった。演者が大酔していることを、私は知っている。しかし、証拠の映像なしにその事実を伝えることができるだろうか?

・運び出される病人たち

そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ち上がった。ネクタイは右の肩の上にはねあがり、ズボンは下がってシャツの裾が半分以上出て、みるからに酔漢の姿である。
何によらず、この姿を克明に捉えることが肝要だと、先まわりするため私は講堂へ走った。一歩はいると、驚いたことにさっき見た状況と全くちがって、もう立錐の余地もないのである。板ばりの床の上に腰をおろした何千の老若男女の信者をかきわけ、講堂の中央に三脚を据えたカメラのそばまでたどり着くのに、大変な時間がかかった。
気になったのは、ひっきりなしに病人が運び出されていることであった。担架もあったが足りないらしく、戸板が使われていた。その上に乗せられ、身をよじったり痙攣したりしている人を、青年たちが運び出すのと次つぎにすれちがった。もともと病人なのか、薄暗い会場の異様な熱気で気分がわるくなるのか、舞踏病のような症状の人が続出しているのである。
病人が運び出されたあとのスペースはたちまち埋まる。というより、あまりのすし詰めに耐えられなくなって、弱者がはじき出されているようにもみえる。
病人を手早く運び出されるこの様子を撮影していいか、と私たちの世話係の青年にきくと答えは断固たる「ノー」。許可されているのは会長の法華経講義だけのはず、それ以外はいっさい認められない、との宣告てあった。
いま考えるとじつに情けない話だが、決定的に想像力が不足していたのだ。カメラがあって、撮影が許可さえとってあれば、現場で何でも自由に選びとれるような気がしていた。どんな現場だろうか、と想像してみることもしなかったのである。
その証拠に、持ってきた照明器具はニュース取材用のバッテリーライトだけであった。硫酸液でずっしりと重い肩掛け式の鉛蓄電池に傘のついた写真電球をつないだだけのもの。全体がかなり明るい場所での、あくまでも補助用のあかりである。こんなに暗い会場だとは思わなかった。これで演台まで光が届くのか?
ためしにスイッチを入れてみると、会場の雰囲気が一変した。静まり返って、すべての視線がこっちに集まり、反感がむき出しである。招かれざる客、よそもの、蘭入者―。押し寄せる殺気よりもっと慄然としたのは、目立つわりに光景が全く小さいという事実だった。せいぜい三メートルぐらいしか届かない。
もっと演台ちかくにカメラを据えさせてくれ、いや絶対駄目だ、と押し問答をして何の対策も立てられないでいるうち、左手から戸田会長が登場してしまった。

・「おろかものが!」

酔歩蹣跚、という言葉を絵にしたようなよろめきかたである。いそいでバッテリーライトをつけたが、もちろん光は届かない。大あわてでバッテリーをかつぎ、床を埋めつくして正座している人びとをかきわけながら前へ進んだ。カメラは駄目でも、あかりだけが近づくぶんには不都合はあるまい。
当然の報いとしてさんざん小突かれたが、それでも何とか会長に近づいてスイッチを入れた。危なっかしくよろめく姿が照らし出されたが、とたんに右腕をあげて顔を蔽い、パンチから身を守るような仕草をなさる。服が乱れ、眼鏡がいまにもずり落ちそうなのが、まるで突然の光の一撃が元凶だったかのようだ。と同時に、会場のいたるところから怒号がとんだ。不覚にも、思わずひるんでスイッチを切ってしまった。こうなると、もう近くからは照らしにくい。
やむを得ず、かなりうしろへ下がったがそこいらでも同じことで、あかりをつけると再び、防禦の姿勢、怒号である。結局、演壇に立ち、話がはじまるまでは点灯を遠慮せざるを得なくなった。そして演台にたどり着いて両手を突くなり、いきなり「説法」ははじまったのである。
「おろかものが!」
開口一番の獅子吼が、この言葉であった。
戸田城聖会長の法華経講義を前にもきいたことがあれば、そんなに驚かなかっただろうというのはあとでわかったことで、はしめてのわれわれは、あかりをつけ撮影をはじめたからこの罵声が発せられた、と思いこんだのである。しかも、戸田会長はそれきり口をつぐんで虚空をにらみ、一言も発しない。
気まずい沈黙の時間が流れてゆく、きこえるのは、いやにかん高いカメラの回転音だけ。このカメラはゼンマイが動力で、15秒ごとにカメラにネジを巻かなければならないのである。
身動きもせず何も語らない人を写して、15秒が過ぎた。カメラが停止したから、あかりを消す。とたんに、
「このオレが、病気もなおらん信心をすすめると思うとるのか!」
大音声である。病人が続々と戸板で運ばれた。その姿を見て、功徳を疑う心が胸をよぎったのではないか?おろかものが!という論旨であった。おろかものという罵声が、われわれに向けられたものではなかったことがはっきりとしたが、肝心のカメラはいま三脚から外され、大あわてでネジを巻かれている最中である。大事なところが写っていない。
こっちの準備がととのい、あかりがつくと沈黙。消えれば獅子吼、という、まことに情けない連鎖で時間だけが過ぎた。途中、ガメラマンの提案で、あかりをつけずコマ落としで、つまり一コマ一コマを長時間露光させて撮ってみたのだが、あとで現像してみるとチャップリンサイレント映画、いやもっと正確には、漫才の横山エンタツの早送りのような映像が映っているだけであった。

著者:吉田直哉
NHKのディレクターで数々のドキュメンタリー作品を制作、芸術選奨文部大臣賞、日本記者クラブ賞などを受賞。専務理事待遇ディレクターを経て退職後、1990-98年、武蔵野美術大学映像学科教授。

 

以上が書籍の該当部分の抜粋です。

私は以前、戸田城聖会長の講義レコードを先輩から聞かせてもらった事があります。現在は創価学会でこういった肉声データを公表していませんが、youtubeでは幾つか動画として上げられていました。

www.youtube.com

現在ではコンプライアンス等で、かなり難しい内容もあったのでしょうか、昭和二十年から三十年頃では、こういったキャラクタが受け入れられた時代であったのでしょう。