
さて、ここで創価学会の行う折伏(しゃくふく)という行為について書いてみたいと思います。
私がこの折伏(しゃくふく)を初めて行ったのは二十歳の頃、前の記事にも紹介しましたが、男子部で活動を始め、創価班大学校に入った時でした。
創価班という男子部の人材グループでは当時、正式なメンバーになるためには1年間という期間の中で「御本尊流布1世帯以上の実施」が条件でした。この条件がクリアされない場合には、創価班の正式メンバーにはなれず、創価班のバッチも貰えません。

毎月1回行われる、創価班大学校性指導会では、常に折伏の進捗状況が確認され、そこで毎回決意発表を行い、誰に何時まで御本尊流布をするのか発表させられます。
またそれ以外でも、地元の男子部組織では毎日の様に折伏の実施状況を詰められるのです。
これがとても辛い日々でしたね。
何故、創価班大学校の1年間に御本尊流布をしなければならないのか。
当時は「自分自身の生き方を、友人1人にも納得させられない人間が、会員を護れるわけがない」と教えられてきました。
まあ聞けばとても「ごもっとも」な理由にも聞こえましたが、とにかく当時は視野狭窄状態で必死になって友人に仏法対話をしていった事を覚えています。
これが部長という、男子部でも支部組織の責任者になると、また違った事で詰められていきます。幹部になると自分自身の折伏よりも、組織内でどれだけ多くの部員(会員)を折伏に取り組ませているのか。そこが評価のポイントとなります。
部長の時には、毎晩、本部長という上の幹部から電話や自宅に呼び出され、誰が何時、誰に折伏をしているのか。その結果はどうか。結果(御本尊流布の世帯数)が伸びない場合には、何が問題で取り組む人間の数が伸びないのかを徹底的に詰められるのです。時には区男子部長の自宅に深夜呼び出され、こってり三十分以上は詰められる事もありました。
しかし一時期。第二次宗門問題が勃発し、創価学会が破門になって以降、栃木浄圓寺所蔵の日寛師の御本尊を授与出来る様になるまでの三年間近くの間は、こういった激烈な折伏もなくなり、組織の現場はかなり緩やかな雰囲気の時代もありました。
しかし日寛師の御本尊授与が再開されると、また折伏で激烈な活動が始まりました。この当時は個人的に納得いかない事もありましたが、組織内の誰もが「御本尊授与が出来る様になってうれしい」という雰囲気だったのを今でも覚えています。
私は本音では、全く嬉しくありませんでしたけどね。
この時には私も男子部で副本部長兼任の部長をしていましたが、当時の区書記長から言われ、夜中の1時に部員を起こして茨城県まで折伏に行った事もありました。
まあ当時(今から三十年近く前)の男子部の折伏活動の一端について紹介しましたが、これだけでもハチャメチャな活動に思えますが、戸田城聖が会長の頃の「七十五万世帯の折伏」、いわゆる「折伏大行進」の時代の折伏は、もっとハチャメチャな活動だったそうです。
◆母親から聞いた事
私の母親の入会は昭和40年頃だったそうです。当時は東京の大森に住んでいたそうですが、そこで近所に住むおばあちゃんが学会員だったそうです。私の母親は実家が昔から日蓮宗(身延)の寺の檀家だった事もあり、御題目は知っていたそうです。
でも近所のおばあちゃんからは、日蓮宗(身延)はとんでもない邪宗で、信者には精神的な疾患も多く、貴方もその宿業を作っているから、早く日蓮正宗に入信し、創価学会で信心しないと大変な事になると言われたそうです。
「同じ御題目だから関係ないでしょう!」
そう言い切ると、おばあちゃんからは「そんな事では、あんたは地獄に堕ちるぞ!」と大声で言われたそうで、それ以来、そのおばあちゃんと付き合いは止めて、父親の転職もあって大森の地から引っ越ししたのそうです。
そんな母でしたが、引っ越した先でも学会員に知り合って折伏され、当時は私の兄の事故もあって入信したのです。
◆知人の親が受けた折伏
これは私が三十歳の頃、職場の知人と話の流れで仏法対話となり、本人は入会しても良いが同居している母親が大の創価学会嫌いで、恐らく入会するのは反対されると言うのです。
何故母親はそれだけ創価学会が嫌いなのか、そこを聞くと、友人は母子家庭で育ったという事で、母一人子一人で必死に生きてきたと言います。まだ友人が生れる前、母親のお腹の中に居た頃、近所の婦人部から折伏されたそうです。しかし母親は宗教に頼らず生きていくと言ったところ、その婦人部から「そんな事ではお腹の子供がカタワ(身体障碍者)になって生まれてきても知らないよ!」と言われたそうです。さすがの母親もこの言葉に大激怒、大喧嘩をしてその婦人部とは縁を切ったと言うのです。
そんな事があったので、創価学会の事は一切受け付けないとの事でした。
ひどい話なのですが、これも「創価学会あるある」な事でしょう。
◆罰論の展開

創価学会の前身、創価教育学会設立当初を振り返ってみると、牧口常三郎は教育論の基本に日蓮仏法を据える事を考えていて、主に教育者に対して折伏を進めていました。
しかしこの話はあまりにも難解で、牧口常三郎の折伏は遅々として進みませんでした。
前の牧口会長の記事でも少し触れましたが、その時にあったのは「長野教員赤化事件」でした。牧口会長はこれを利用して創価教育学会の組織拡大を考えたようですが、結果として内務省や警視庁などの協力を得たにも関わらず、組織の拡大は進まなかった様です。
そこで「どうも折伏が思う様に進まない。そこで、先生(牧口会長)は伝家の宝刀を出そうと言われ、罰論を中心に折伏を用いる様になった」(矢島周平氏 談)となった様です。
この罰論は、信心すれば事業が成功する、病が治る、借金も返せる。しかし信心しなければ事業が失敗し、病も重症化し、借金も増えて破産する。また信心始めた頃には過去世の宿業が出て苦労するが、それを乗り越えたら沢山の功徳が得られる。
この様に会員に教え、会員もそれを信じて折伏すると、それまでとはくらべものにならない程、入会者が激増していきました。
この辺りについては、牧口常三郎が特高警察に逮捕され、尋問された中で「創価教育学会の指導理念」を聞かれた時、以下の様に答えています。
「私の価値論は日蓮正宗の本尊に帰依すること、具体的には創価教育学会に入会する事に依って、本会の信仰が人生生活と如何に関係が大きいか、価値が大きいかを判定認識せしむるのが指導理念でありまして、人生生活の全体主義的目的観を確然と把握せしめ、本尊の信仰に依る異体同心、共存共栄の生活を体得実証せしむるにあるのであります。
故に本会に入会するに非らざれば、個々の生活の幸福安定は勿論得られませんし、延いては国家社会の安定性も得られないと私は確信して居ります。」
要は信心すれば人生の価値の大きさを実感できるし、信心しなければ人生の価値は感得する事は出来ない。日蓮大聖人仏法を信仰しても、創価教育学会に入会し、価値論に基づいた指導の元でのみ、この信仰の功徳を感得出来ると言っていたのです。要はこの論理で功徳の半面として罰論は存在していたのです。
これは1941年頃の話であり、牧口常三郎が会長に、戸田城聖が理事長に就任した時期ですが、その時、戸田城聖は創価教育学会の中で、実業家グループ「生活革新同盟倶楽部」というのを率いていました。
この実業家グループは毎月一回、神田区錦町にある日本商手の会社の事務所で定例会を開催していたと言います。そこでは金銭問題を含め、商売についてかなり突っ込んだ議論を毎回行っていたと言いますが、そこでも企業の売り上げが上がれば「功徳」、売り上げが下がれば「罰」と捉えていた様で、実業家たちはこの功徳と罰を企業経営の中で一番実感できる立場に居たようです。
「最近次の如く確信す。信仰は事業のバロメータなり。信仰強盛ならば、即ち事業盛んなり。信仰不正なら、事業も又不振なり。而して信仰正しくば、生活の全部門に亘りて困窮する事なし。又、当宗の信者にあらざれば、信仰欲せずと」
これは1942年3月10に行われた神田支部座談会において実業家グループの幹部の発言として記録されていた言葉ですが、当時の創価教育学会の雰囲気を一番表している言葉であったと思います。