
創価学会の折伏で一段と過激さを増したのは、戦後の戸田城聖が会長の時代だったと思います。
戸田城聖は1951年5月3日に創価学会の二代目の会長に就任しました。この時に有名(とは言っても創価学会の中だけですが)なこの言葉を発しました。
「私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。もし私のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。遺骸(いがい)は品川の沖に投げ捨てなさい! よろしいか!」
創価教育学会は壊滅し、戸田城聖が出獄した翌年、1946年1月に教育の二字を取って創価学会として、その準備委員会を立ち上げ、五年ほど経過したとは言え、当時の会員数は3000名余りでした。そこで二十倍を超える組織拡大を宣言したのです。
それ以降、「折伏大行進」と銘うって、創価学会として驚異的な組織拡大を行っていきました。
◆折伏大行進
この時、日本にある宗教で日蓮正宗以外は全て「邪宗・邪教」と定義して、折伏教典という書籍を発刊し、その中では各宗教団体をどの様に破折するかの論点をまとめ、これを片手に会員は様々なところへ折伏に出かけていきました。特に青年部などは他宗教のところへ乗り込みをかけるなど、かなり過激な行動もあったようです。
いま日本国内にある「創価学会に対する忌避感」は、この折伏大行進の時代に醸成されたものであったと言っても良いでしょう。
この当時の代表的な逸話として、身なり貧しい婦人が子供の手をとり、自分よりも裕福な家に折伏といって出かけるわけです。そして自分よりも身なりも良く、裕福な人に対して「あなたは間違えた宗教を信じているから不幸になる。でもこの創価学会の信心をやれば必ず幸福になる」と話をする訳です。
すると相手から「うちに来るくらいのお金があるのなら、子供に何か美味しいものでも食べさてやったらどうか」と返されたと言います。これは至極真っ当な意見ですね。
当時の日本は戦後間もない、まだ貧しい人たちが多く居た時代です。そういう人達が、この創価学会の信心で貧しい生活から脱却出来るのならと入会し、必死に折伏を進めました。
また1950年代の日本は、高度経済成長に差し掛かる時代になっていましたので、地方から集団就職で都心部に大量の中卒者が流入を始めた時代であり、地方から都心部に就職した若い人たちにとっても、創価学会は受け皿として機能した事もあったでしょう。そして創価学会をよりどころにした若者たちが、創価学会の指導の元で折伏という強引な折伏活動に没頭していく事もあったでしょう。
私は男子部の事、近所の高齢の婦人部にこの「折伏大行進」時代の話を聞いた事がありますが、それはとても苛烈な内容でした。
夫婦で地方の友人のところへ出かけ折伏する。しかし友人は創価学会には入会しないと、ケンモホロロの状態で追い返され、夜の11時に創価学会の幹部のところへ報告に行ったそうです。すると幹部から「それでは次の折伏する友人のところへ行ってこい!」と叱られて追い出されたというのです。夫婦は疲れた体を引きずる様にして、夜中の12時近くにまた別の知人の家に折伏へ行ったそうです。
高齢の婦人は笑い話の様に語っていましたが、こういった過激な折伏が昭和20年代から30年代にかけて行われていたと言います。そしてそこでは功徳論と共に罰論を展開していきました。
今の時代では考えられない事なのですが、それが当時の創価学会の急激な組織拡大を生み出していった訳で、その中で罰論を展開した事から社会の中で創価学会という宗教団体に対する忌避感も強まっていった事は容易に推察できるのです。
戸田城聖は1958年(昭和33年)に亡くなりましたが、その時には創価学会の会員数は75万世帯を裕に超えていたと言いますので、彼は己の請願を果たした事にもなるのでしょう。しかしその陰にはここで紹介した高齢の婦人部の人の様な活動や、様々な人間模様があった事は容易に想像できるのです。
◆折伏スタンスの変化
創価学会の折伏は基本的に罰論が根底にあったと思います。折伏教典では他宗教の事を邪宗教と呼び、不幸の原因は全て間違えた宗教にあると断じていました。しかし池田大作氏が会長になり、時代も昭和50年代あたりになると、こういった罰論だけでは新入会者の理解が得られない時代にもなって行きました。これには日本社会も高度経済成長時代を越えて「一億総中流社会」と言われる様に、多くの人が経済的に余裕ある社会になってきた事も関係すると思います。
私が男子部になった昭和60年代(1980年頃)になると、人生の質とか、より良い生き方が創価学会の信心をする事によって得られるという形に、折伏のトーンも変わってきていました。単に昔の様に「功徳」と「罰論」だけで創価学会に入会する人は少なくなったという事なのでしょう。
また日本社会も核家族化が進む中で、昔は家系があって、「家」としてどこぞの宗派に属していた人が多く居ましたが、そういった「家の宗派」という事の認識が薄くなったという事も、こういった罰論が使えなくなった背景にはあったのかもしれません。
私が男子部で幹部をしていた平成の時代では、友人の折伏で罰論を語る事はありませんでした。むしろQOL(人生の質の向上)に寄与し、自分の人生の向上の一助になる宗教であり、また自分自身の夢の実現の糧になる宗教という話で折伏を行っていました。
◆折伏について
さて、創価学会が戦後に行ってきた折伏について少し紹介をしてみましたが、この折伏とは本来どの様な意味があるのでしょうか。まずは言葉の意味についてひも解いてみたいと思います。
折伏とは、折破摧伏(しゃくはさいぶく)を略した仏教用語であり、悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。 折伏は、「摂受(しょうじゅ)と共に衆生を仏法に導く手段[」とも、「摂受と対をなす」とも仏教事典では【摂受折伏】という項目を立てて、摂受および折伏の両方を解説していることが一般的である。
(Wikipedia「折伏」を参照)
この折伏の意義を読んでみると「悪人・悪法を打ち砕き、迷いを覚まさせること。人をいったん議論などによって破り、自己の誤りを悟らせること。あるいは、悪人や悪法をくじき、屈服させること。」とあります。つまり相手の間違いや迷いを断ち切る行いを指している事が解ります。この前提として折伏を行う側が「正しい」という事になっているのです。
つまり創価学会が「折伏大行進」と呼んで行っているのは、学会の教義(教え)が常に正しいという事が前提になっているのです。
しかし考えてみれば「正しい」「間違っている」とは常に相対的な事なのです。
創価学会が基礎とした日蓮仏法の提唱者(宗祖と呼んでいますが)、日蓮も自ら折伏を行いましたが、それは自身の感得した仏教の教理が正しいという事が前提になっての事であり、日蓮はそれを示すための論理として「五重の相対」というものを示したと言われています。要は五つの事を相互比較して正しい事を選択したと言うのです。
この五重の相対という教説ですが、実は日蓮は「五重の相対」という言葉を用いていたわけではなく、日蓮は自著の開目抄の中でその考え方を表明していたに過ぎず、後世の弟子たちが、その考え方をまとめて「五重の相対」と呼ぶようになりました。
しかし同じ日蓮門下の中でも五重の相対のうち、最後の相対については意見が別れているのです。ここでは五重の相対の全般について詳細を説明する事はしませんが、この最後の部分についての相違を示す事にします。
こちらは教とは法華経の門上の教えの事で、三証で言えば文証・理証にあたります。また観とは文底に沈められている内証の妙法蓮華経を実践の中で読んでいく事指しています。つまり経文の事を理解したとしても、その文底にある事を実践の中で掴んでいく事が重要であるという相対を指します。
・種脱相対(日蓮正宗の相対観)
こちらは法華経の文上は脱着仏法の釈迦の教えの事であり、日蓮は文底下種仏法と言っています。末法の時代の衆生は本未有善(仏種を植えられていない)なので、日蓮の下種仏法が重要であるという相対を指します。
この日蓮宗の相対観と、日蓮正宗の相対観は、実はいまだ未決着な状態です。創価学会では小樽問答という1955年に行われた創価学会の小樽班の会員と、日蓮宗妙龍寺との法論で決着済みという意識かもしれませんが、実際には小樽問答は当日の司会者であった池田大作氏の対論進行によって「勝った」という形を作り出しただけで、法義的な議論はなされ切ってはいません。
つまり創価学会の教えが「正しい」という事は、いまだ完全に証明はされていないのです。そもそも日蓮が正しいという教説である五重の相対自体が、いまだに教観相対と種脱相対と解釈が分裂している状態なのです。
これは私見ですが、恐らく今の創価学会や日蓮正宗と、日蓮宗で対論を行ったら興味深いと思うのです。おそらく創価学会や日蓮正宗では、日蓮宗に法論で勝つことは難しいかもしれません。
◆まとめ
創価学会では未だに折伏という言葉を利用していますが、仏教用語の本義からすれば、その教団としての教義が「正しい」という事が証明されていない以上、言葉は折伏であったとしても、実際に行ったことは、強引な言葉による組織勧誘でしかなかったのではないでしょうか。日蓮はこの対論の姿勢として以下の事を戒めていました。
「公場にして理運の法門申し候へばとて雑言強言自讃気なる体人目に見すべからず浅�しき事なるべし、弥身口意を調え謹んで主人に向うべし主人に向うべし。」
(教行証御書)
ここでは公場と言っていますが、人前と言っても良いでしょう。そこで法門の事を語る(仏法について語る場合)に、雑な言葉、強い言葉、自賛する態度などは人に見せてはいけないと言っています。それは浅ましい事だとも言っています。あくまでも法門の事を語るのであれば、身なりを整え、言葉を慎みながら相手に語るべきであると言っています。
昭和20年代から創価学会が行ってきた折伏とは、実は日蓮の求めていたものとは異なるという事を、創価学会の活動家はまずはしっかりと認識する必要があると、私は考えています。