自燈明・法燈明のつづり

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創価学会の教義改正③

2014年11月18日に原田会長が発表した教義改正は、三大秘法に関しての内容を変更したものですが、それに付随して創価学会日蓮仏法と呼ぶ教義内容や、その歴史の解釈についても変更するものでした。

この事については翌年の2015年1月29日付の聖教新聞四面に「会則の教義条項改正に関する解説」として掲載されましたが、その内容について先ずは説明します。

2.出世の本懐の変更

この解説の中で、従来は日蓮正宗の解釈に基づき、弘安二年の大本尊を顕した事が日蓮の出世の本懐(この世に生まれ出た本当の目的)だと位置づけていましたが、今回の会則改正に伴い、原田会長が「(大本尊を)受持の対象とはしない」と制定した事により、「(日蓮の)出世の本懐の意味について考察をしておきたい」として以下の様に述べていました。

「まず、「聖人御難事」を拝すると、本抄の趣旨は次のように整理することができる。
一、大聖人御自身が、本抄において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。
一、本抄は、「仏」(釈尊)と、「天台大師」 「伝教大師」 を挙げて、それぞれの出世の本懐を遂げるまでの年数を示し、そのうえで、「予は二十七年なり」 と言われて、この27年間、御自身が大難に遭われたことを強調されている。これに続く御文の内容もことごとく難について述べられている。
一、弘安2年10月1日の御述作である本抄において、大聖人は、農民信徒の捕縛の後、彼らが不惜の信仰を貫いているとの報告を聞いて、門下一同へ、とりわけ法難の渦中にいる門下へ、種々の厳しい信心の御指導と最大の励ましを送られている。
したがって、この 「二十七年」 という 「時」 と、本抄の 「難」 への言及の本意は、熱原の法難で、農民信徒が不惜身命・死身弘法の姿を示したことを称賛されることにあるといえる。
一、大聖人の御生涯における出世の本懐とは、三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したことである。」

この説明のように、確かに弘安二年の大本尊の御図顕について明確に書かれている御書は存在しないし、この「聖人御難事」にある「予は二十七年なり」が実際に何を指しての言葉だったのか、議論を呼んでいる個所ではあります。一部にはこの時期に顕された「三世諸仏総勘文教相廃立」を著した事だという説もありました。

しかし創価学会としては、従来の「熱原の法難」を見て時を感じて大本尊を建立したという訳ではなく、この法難を見て、農民信徒が不惜身命・死身弘法の姿を示した事を称賛し、そこに末法万年の民衆救済の道を完成した事を感じられたという理屈を作っていますが、これは頂けない内容ではないでしょうか。

日蓮の門下や信徒の中では、別に熱原の法難以前にも殺害された人、様々な罪状を掛けられ追放された人は多くいました。この創価学会の理屈で言えば、過去のそういった門下や信徒たちの死身弘法の姿では、まだ末法救済の道を完成していなかったというのでしょうか。

そもそも日蓮が門下や信徒を害された事に、大きな悲しみや苦しみを感じていたと思いますが、そういった悲しい出来事に「私の生まれ出てきた本当の目的はこれだったのか!」と言う様な事を感じる、いわゆる「サイコパス的な要素」があったとでも言うのでしょうか。

また熱原の法難の信徒たちは、確かに苛烈な弾圧を受け、その中で「熱原の三烈士」と言われる神四郎・弥五郎・弥六郎は処刑されてしまいました。そんな中、熱原の人々は「私達こそ日蓮門下の誉」と御題目を唱えたとは思えないのです。そこで唱えた御題目というのは、理不尽な幕府権力者をはじめ、彼らを弾圧してきた仏教僧に対しての反抗という思いで題目をひたすら唱えたのではないでしょうか。

私は従来から大石寺が教えている「熱原の法難」「三烈士の殉難」「そこからの大本尊の建立」という縮図も、けして日蓮の本意ではないと思うのですが、創価学会の解釈についても、その根っこには何ら宗門と変わる事のない歴史観だというのが、とても残念でなりません。

そもそも鎌倉時代、「民草」という言葉はありましたが「民衆」という概念もありませんでしたからね。

その意味からも、この出世の本懐の解釈変更は、何ら意味がないと考えているのです。そもそも「出世の本懐」という定義自体、必要ないのではありませんか?

3.日寛教学の見直し

大本尊の解釈の変更を行うと、必然的に従来の教学の基礎をなしていた堅樹院日寛師の教学に対する見直しも必要となってきます。日寛師の教学では、その根本に大石寺の大本尊を据えていますので、それを「根源」でもなければ「受持の対象としない」と変更すれば、当然、日寛師の教学自体も否定せざるを得ない事になります。

この事について、創価学会教学部では以下の様に述べています。

「これまで日寛上人の教学に基づいて、「一大秘法」 や 「六大秘法」 ということを使用してきたが、「一大秘法」 が 「本門の本尊」 であるという日寛上人の解釈は、御書にはない。
御書に「一大秘法」と教示されているのは、「曽谷入道殿許御書」のみである。そこでは、「妙法蓮華経の五字」(御書1032頁)を一大秘法として明かされている。
以上のように、日寛上人が用いられている三大秘法を合した「一大秘法」、また、三大秘法を開いた「六大秘法」という表現は、御書そのものには説かれていない。
これまで学会では、日蓮正宗の教義解釈を尊重し、「弘安2年の御本尊」を根本の本尊とする、との日寛上人の解釈を採用してきた。
日寛上人の教学には、日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。日蓮正宗が完全に大聖人の仏法に違背した邪教と化した今、学会は正統の教団として、世界宗教にふさわしい教義の確立という立場から見直しを行っていく。
その意味で、日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は、今後用いない。」

ここで創価学会教学部では、日寛師の教学の骨髄たる一大秘法・三大秘法・六代秘法を用いないと宣言しています。

また日寛教学とは「日蓮大聖人の正義を明らかにする普遍性のある部分と、要法寺法主が続き、疲弊した宗派を護るという要請に応えて、唯一正統性を強調する時代的な制約のある部分があるので、今後はこの両者を立て分けていく必要がある。」と解釈していますが、これには歴史的な誤認が含まれています。

まず日寛師の教学以前は、確かに要法寺の教学が富士門流の主流でした。具体的には要法寺十三世貫首の日辰師の教学です。具体的には「像仏論議・読誦論議」というものがありますが、それ以前の富士門流は「西辰東我」と呼ばれていて、西は日辰師、東は保田妙本寺の日我師の二大碩学と呼ばれていた人物です。

その日辰師の立てた教学が富士門流の中心でしたが、江戸中期になると富士門流の中に天台懐古の動きもある中、日寛師は中古天台恵心派の流れを日蓮の教学に取り入れました。これは当時の大石寺貫首と、川越仙波檀林(中古天台恵心派の檀林)のつながりをみれは容易に想像つきます。

この日寛師の教学は、当時の富士門流の中で瞬く間に注目され、日寛師のいた富士大石寺もそれまでは「田舎の山寺」扱いだったものが、一気に教学の中心拠点となっていきました。

日寛師が「日蓮正宗 中興の祖」と呼ばれたのは、その実績からとなります。

こういった富士門流の歴史的な概略から考えると、創価学会教学部の言う日寛師教学の評価は、すこしというかずれがあるのが解ります。そもそも日寛師の教学とは中古天台の混入であり、それまでの富士門流の内容とは違う思想を混ぜ込んでしまったのです。

創価学会の教学部も、どうせやるなら日寛師を完全否定する位の論陣を構築すべきで、弘安二年の大本尊も後世の偽作だったと公言すべきなのです。

そしてその上で、今の時代における日蓮仏法なり、池田大作氏の仏教観を元にした教義を構築すべきではないでしょうか。そしてそこには当然、これまで創価学会が会員に信奉させてきた「日蓮大聖人仏法」に対する総括をしっかり行うべきなのです。

しかし実際にそれをやるには、様々な困難な事があるでしょう。一番のネックになるのは、現在の六十歳以上で組織に残っている人たちの多くは、長い間、大石寺の教義を根本に信心をしてきました。そして中には「宿命転換が出来た」「すごい信仰体験を得た」という人もいますし、少なくともその教えに人生を掛けさせてきてしまいました。

それを無碍に打ち砕き、変更をさせるというのは不可能と言っても良いでしょう。

つまるところ、創価学会が教義改正を行える範囲は限られてきますし、そもそも今の創価学会指導部にしたら、宗教の骨格の教義の正当性よりも、如何に長く会員活動家を組織側に引き留められるか、また大石寺の呪縛から解放し、創価学会の側へ立たせるかという「組織の理論」しかないでしょう。

そう考えると、今回の教義改正にしても、内容や論理の適当さが出てきても否めないのかもしれませんね。