自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

公明党の生い立ちについて①

今回は公明党の事について少し書いてみたいと思います。

公明党についてちょっとネットで検索すると、まあ公明党議員とかシンパとか、そのあたりの情報がゴマンと出てきますね。また過去の経緯などを調べようとしても、中々調べたい事が見つからず、出てくるのは創価学会公明党関係者の情報がほとんどです。WIKIPEDIAを見てみても、過去の歴史の中で重要な出来事などについてはあまり書かれておらず、どちらかと言うと、公明党信者が喜ぶ様な情報ばかり。

まあ座談会の研究発表レベルのものであれば、そんな情報でも十分に事足りるのですが、私がまとめたいのは、そういう類の情報ではありませんので、国立国会ライブラリ等もちょっと調べながらまとめてみます。

公明党の「出自」は創価学会

これは言わずと知れた事ですが、どの様に公明党という政党は創価学会という宗教団体から生まれ出たのか、その辺りについて少し紹介します。

創価学会は、1955年(昭和30年)4月30日の地方選挙に初出馬しました。理事長小泉隆氏が東京蒲田を地盤に都議会議員に当選したのをはじめ、東京都特別区議会議員、市議会議員に合計52名が当選しました。

その当時の内訳は東京都の区議が32名、市議がその後の当選を含めて神奈川6名、埼玉5名、宮城4名、千葉2名、東京・北海道・福岡・兵庫・群馬・秋田各1名でした。

東京都は、創価学会の教勢の主要な基盤であり、会員の密度も全国一でした。地方選に備えて京浜一帯では地域組織が作られて各区で結集座談会が開催され、会員の「信心」の度合いで三段階に分類して、上部が末端の活動家を掌握し、組織的に選挙に取り組みました。このあたりは現在の支援活動の原型と言っても良いでしょう。

こういった創価学会本部の着実な作戦が効を奏して、創価学会の区議は33名中12名が最高点、8名が2位、2名が3位という高位当選を果たし、得票合計は約62,000票に達したのです。

この当時は創価学会の文化部員が無所属のかたちで地方議会に進出したのですが、これは当時の「折伏大行進」から創価学会が指向してきた政治進出のコースの具体的な第一歩だったのでしょう。

この地方選挙の経験を生かして5月19日には東京都内でブロック制が実施されました。これは従来の創価学会の組織が、折伏された人は折伏した人の組織に所属するという「タテ線組織」でしたが、やはり選挙になると地域による組織「ヨコ線」の組織形態が必要となります。いまの創価学会は基本的にヨコ線組織ですが、それも対選挙対策の一つとして実施された体制から始まりました。

本部内ではこの5月に「創価学会政治連盟」が結成されました。そして創価学会として翌年7月の参議院選挙に備えて、8月の夏季大折伏戦では45都市に600人を経顕し、11月3日には東京の後楽園球場で第13回総会を開催し、そこに7万名が参加しました。

翌年(1956年)7月10日に参議院選挙が行われ、創価学会は6名(全国区4、地方区2)の文化部員を推薦し、この選挙で全国区からは文化部最高顧問の北条雋八氏(四代会長の父)、教学部長の小平芳平氏、青年部長の辻武寿氏の3名が当選し、統監部長の原島宏冶氏は落選しました。地方区では関西総支部長の白木義一郎氏は当選しましたが、指導部長の柏原ヤス女史は落選したのです。

この時、大阪では有名は「大阪事件」が起きました。

戸田城聖氏が会長に就任したのは1951年なので、わずか数年で政治の世界に進出するというのは、今から考えてもとても驚異的な事だと思います。この背景には折伏大行進による驚異的な教勢拡大もありますが、それを為しえたのも戦後日本の混乱と復興に創価学会の理念が合致していた事も大いにあったのではないでしょうか。

戸田城聖氏はこの創価学会の政界進出に対して、その理念的な事を8月の機関紙「大白蓮華」で「王仏冥合論」と題して、以下の様に述べていました。

「我等が政治に関心を持つ所以は、三大秘法の南無妙法蓮華経広宣流布である。即ち国立戒壇の建立だけが目的なのである。」

この王仏冥合論では、王法と仏法が冥合したとき真の平和が訪れ、人々の幸福があると主張し、その為には勅宣と御教書を申し下して怪談を建てるべきと述べています。これは日蓮の御書の「三大秘法抄」に基づく内容となっていて、これは日興師から日目師といった大石寺歴代貫首が務められてきた事だといい、創価学会にとっては当然の使命であると語っています。続けて戸田氏は、

「世界の民衆が喜んでいける社会の繁栄の中に各個人もまた喜んで生きていけなければなるまい」と述べて、王仏冥合の精神は、社会の繁栄と個人の幸福の一致である事も述べています。

この王仏冥合論は突き詰めて言えば、日蓮正宗創価学会の国教化でもあり、このスタンスはまぎれもなく明治期以前の政祭一致主義と言われてもしかたがない内容で、創価学会としてはそれを議会制民主主義の手続きによって達成しようと考え、政治の世界へ進出したのは間違いないでしょう。

戸田城聖の想い

創価学会国立戒壇を建立し、王仏冥合を成し遂げる手段として国政に出て行った事は間違いないと思いますが、ここで謎な事があるのです。それは何故、地方議会から始まり、参議院に出馬だけで止めていたかという事です。

当時の戸田城聖氏は以下の様に語っていたと言います。

創価学会として政党をつくろうというのではなく、仏法を理解する者もあれば、自民党でも共産党でも構わない。また進出するのは地方議会と参議院までである」

実はこのあたりについて、私は現在、顕正会が未だに主張している内容にヒントがあると思えるのです。

顕正会とは現在に於いてはカルト教団として世間に認知されていますが、この団体では、戸田城聖氏も引用していた日蓮の御書の「三大秘法抄」の中の以下の御文。

戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」

この中の「王臣一同」とは「日本国民全員」であると主張していました。だから国立戒壇を建立する際には、日本国民全員が日蓮正宗に帰服している必要があると主張しています。(近年は国民の大多数とか、そのあたりはかなりブレてはいますが)

今でこそ、この主張も「カルトだ」と言われますが、そもそも日蓮正宗の考えていた広宣流布とはこの姿であり、それは牧口氏、戸田氏も同じ広宣流布観を持っていました。

そこから考えれば、戸田城聖氏にしても3000人から始まった創価学会が、わずか数年足らずで75万世帯に近づく勢いをみて、この勢いが維持できれば、この先はいずれ日本人の大多数が日蓮正宗創価学会に入信する事も出来ると考えていたのかもしれません。そうであれば政治に関して「仏法を理解する者もあれば、自民党でも共産党でも構わない」という言葉にもなったのかと思うのです。

日本という国の国会では、衆議院の議決が優先されます。もし政治主導で広宣流布を考えるのであれば、政党化や衆議院の進出という事も考えたかもしれませんが、戸田城聖氏の考えた広宣流布とは、そういう形では無かったのでしょう。

ただ少し穿った見方をすれば、戸田城聖は戦時中に特高警察に逮捕拘禁されました。そして牧口会長は獄死して、自身も何とか生き延びて出獄したという経験をしています。当時、創価教育学会では内務省や警視庁と協力していても、こういった大弾圧は受けてしまいました。そうであればより国の統治側にも食い込んでおく必要があると考え、まずは参議院に食い込んでいったという見方も出来なくはありません。

衆議院に出なくても、国民の大多数が信徒になれば、法律を制定し国会の議決も得られ、国立戒壇も建立できる。その社会の姿の先駆けとしての政治進出だったと私は覆えるのですが、皆さんはどの様に思われますか?

 

【参考文献】

創価学会=公明党(村上重良 著)