
創価学会75万世帯の願業を成就して、第二代会長の戸田城聖氏は亡くなりました。
1958年(昭和33年)4月2日、急性心不全により駿河台日本大学病院で享年59歳でした、
戸田会長亡きあと、理事長の小泉隆氏を中心に結束を固めて進みましたが、6月30日には当時参謀室長だった池田大作氏が総務に就任し、創価学会は集団指導体制で戸田城聖の路線を踏襲し進みました。
◆戸田城聖氏から池田大作氏へ

池田大作が第三代会長に就任したのは戸田氏が亡くなってから二年後の1960年(昭和35年)5月3日、32歳の時でした。
この当時、創価学会の世帯数は127万人と言われていましたが、池田氏は会長就任にあたり、戸田城聖氏の七回忌まで300万世帯の達成と、世界的な建築の粋をあつめた大客殿建立、また邪宗教の徹底的な粉砕の3目標を掲げました。
この邪宗教の徹底的な粉砕という方向性によって、創価学会が他宗教と緊張関係が強くなる中で、戸田会長の時代から他宗派寺院との間の起きていた墓地問題なども、その後、1962年(昭和37年)には他宗派が当時の厚生労働省の通達、これは創価学会の会員の僕地埋葬を認めるというものですが、それの取り消しを求めた請求も退けられる形で、創価学会側の「勝利」という形となりました。
しかしこの会長就任した時期に、池田氏は当時、国民的政治闘争となっていた安保闘争に直面したのです。
当時、政府は新安保条約を成立させるため、政府支持を明確に掲げる神社本庁のほか、生長の家などの既成宗教や新興宗教に対して活発な働きかけを行っていました。特に新宗教の有力教団は、一般的に指導者が保守的であり、また大きな動員力を持っていた事から、この安保情勢の激化と共に、政府筋からは大きな期待を抱かれる存在となっていたのです。
1960年6月2日に自民党は新日本宗教団体連合会(新宗連)を通じて加盟教団の幹部を招き、岸総理が出席しての朝食会を開きました。ここで岸総理は政府の立場を説明し、アイゼンハワー大統領訪日に備えて、新宗教の動員を要請しました。
これを受けて立正佼成会では安保問題の講演会を開き、新安保促進運動を展開し、生長の家は総裁の谷口正晴の指導のもとで教団として安保促進をかかげ、6月16日には安保賛成の学生集会を行ったりしました。しかし安保反対運動の予想外の高まりに政府は直面し、自民党はアイゼンハワー大統領の訪日の歓迎尽の動員を検討、急遽、立正佼成会に6000名、生長の家に3000名、国柱会に500名、その他の宗教団体に4000名の動員を依頼しました。しかしこういった動きも、各宗教団体の青年組織などが反対して思う様に動員数を得られなかったと言います。
こういった情勢の中、創価学会に対しても軍楽隊を先頭に数千名の動員依頼が政府からありましたが、池田氏は「信仰と無関係な行事にそれぞれ職業を持ち、多忙な会員を動員する事は出来ない」と拒絶しました。当時の創価学会では安保問題への賛成・反対は会員各自の判断と正式態度を決めたと言います。
参議院においても創価学会の無所属議員の9名は、安保改定よりも邪宗改定が重要であると主張、また同年起きていた三井三池争議についても組合員に学会の会員がいましたが、「闘争については正しい信仰が必要」と述べただけで、中立の立場を明確化しました。また安保問題で自民党は参議院でも単独採決に追い込まれる状況となりましたが、創価学会としては単独採決には反対し、国会正常化を要求する無所属クラブ声明の推進力となり中立の立場は守ったのです。
この当時の池田氏は、安保問題の激動の時期に本部機構の充実、関東で五総支部制の実施、関西や九州では三支部の編成をつくるなど組織面の強化を進め、10月にはアメリカへ赴き在米会員の指導を行い、アメリカにも初の海外支部を新設しました。
そして安保闘争が左翼勢力の分裂と後退により退潮機運になるなか、創価学会はこの年の年末には公称230万世帯を達成し、戸田会長時代から更に組織を拡大していきました。そして翌年の1961年5月3日、創価学会は池田会長就任一周年を記念して文化局の設置を発表しました。この文化局には、政治、経済、教育、言論の四部門がおかれ、後に学術部も加えられたのです。
この文化局の設置は、政治進出の指導部の拡充強化を意味していて、池田氏はこの事について「第三文明建設の実行機関」とも呼びました。この段階で池田氏は、戸田氏の掲げた創価学会としての政治路線を堅持していたのです。
◆公明政治連盟の設立
文化局を中心として政治活動は、1961年(昭和36年)後半を通じて、着々と強化が進められていきました。そして当時の創価学会の中では政治進出の意義の徹底化が進められてもいたようです。同年11月27二里、創価学会は外郭団体として公明政治連盟を発足させました。翌年1月には組織機構及び委員長原島宏冶以下の人事を発表して活動を開始したのです。
この「公明」という名称ですが、創価学会の政治進出は、既成権力に対する批判勢力として議席を拡大してきた事から、選挙の腐敗、不公正への批判は政界進出当時からの重要なテーマでした。そして選挙の公正は、議会制民主主義の根本であり、これは自治省(当時)の選挙管理委員会でも「公明選挙」という言葉が官製スローガンとして掲げ、用いられていました。
創価学会はこれまで政治を倫理の言葉で語りました。そもそも創価学会として具体的な政治的内容はもたず「国立戒壇建立の実現」を選挙活動時の理念の中心に据えていたので、この「公明選挙」という言葉は毎回の選挙で重要な「政策」の一つとして語ってきました。その事から創価学会として政治集団を結成するにあたり、この「公明選挙」の言葉から「公明政治連盟」という名称を選んだと言います。
この当時、実は「創価学会には政策が無い」との世評も多く言われていたので、公明政治連盟として以下の「基本要綱」を発足時に発表しました。
一、現今の政界は保守・革新を問わず、派閥抗争に明け暮れ党利党略を重んじ、日本国民の福祉を忘れ、大衆とまったく遊離しつつあることを深く憂うものである。
一、公明政治連盟はこれらと本質的に異なり「社会の繁栄が即個人の幸福と一致する」諸政策を推進し、日本国民の真の幸福と繁栄のみならず、広く世界人類の永遠の平和実現を期するものである。
一、われらの政治理念は、日蓮大聖人の立正安国の精神を根本とし、その最高の哲理と最大の慈悲を基調とし、近代的にして、もっとも民主的な政治団体としての活動を行うとともに、いっさいの不正に対して厳然たる態度を明確に行うことを公約する。
また「基本政策」では、核兵器反対、憲法尾改悪反対、公明選挙、政界浄化、参議院の自主性確立をかかげていました。
創価学会として、この公明政治連盟の結成は、政党化への第一歩を踏み出した事でもあり、それまでの政治的な宗教団体から、宗教的な政治団体へのシフトを始めたという事なのかもしれません。
【参考文献】
創価学会=公明党(村上重良 著)
「東洋学術研究」第44巻第2号 「池田大作の政治観及びその実践」