
1964年(昭和39年)4月1日、大石寺では大客殿落慶法要が行われました。この時、創価学会では300万人総登山が始まり、その第一陣としてアメリカから空路来日した154名も参加しました。この日、池田会長は法華講の最高位の総講頭に任じられました。
◆公明党の結成
5月3日には、東京領国の日大講堂で、第27回本部総会が開かれ、池田会長は向こう7年間の「第6の鐘」の戦い目標として、正本堂建立、七年間で600万世帯の折伏達成、創価文化会館の建設と衆議院進出の四大方針を発表しました。この時池田会長は「公明政治連盟をば、皆さん方の賛成があるならば、王仏冥合達成のために、また時代の要求、民衆の要望に答えて、政党にするもよし、衆議院に出すもよし、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。(大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定といたします。(中略)恩師、戸田先生も時きたらば衆議院へも出よとのご遺訓があったのであります」と表明しました。

この当時の事について、後に田原総一朗氏との対談「戦後50年の生き証人」の中で池田会長は以下の様に述べています。
「自分の指導のもとで公明党を創設したけれども、本当は私は衆議院には出したくなかった。それは戸田会長が「衆議院には出さない方がよいと思う」と言っていました。しかし、当時の議員たちが「衆参両院なければ本当の政治はできない」と言い始めた。だから、これも時代の流れ、社会人と人心の動きというものだと思い、時代に即応してゆくことが正しい」と判断したものです。
1962年の段階で、創価学会の参議院議員は15名に達していました。そこで予算のつかない議案の提出資格を得たと言いますし、そこでは院内交渉団体として「公明会」を設立していました。
よくネットなどでは「戸田城聖は衆議院進出までは考えていなかった」と言い、それを公明党という政党化し、戸田城聖の意思を違えて衆議院に進出したのは、池田氏は師匠の遺訓に反していたのではないかと言う話を目にします。
しかし池田氏が述壊した公明党の設立の経緯や衆議院進出の当時の状況を見ると、公明党という政党を結成した時、池田氏は公式には「恩師戸田会長も時来たらば衆議院に出よ」と言っていましたので、今がその時と自身の判断で衆議院進出を決めた様に発言していましたが、その実は当時の公明政治連盟の国会議員からの要請によって、衆議院進出を決定したと言う事なのでしょう。
前の記事で、戸田城聖の政治に対するスタンスとして「創価学会として政党をつくろうというのではなく、仏法を理解する者であれば、自民党でも共産党でもかまわない。また進出するのは地方議会と参議院までである」という事だと紹介しました。これは恐らく戸田城聖の考えた王仏冥合、国立戒壇建立については創価学会という組織を拡大すれば実現できるものであり、政界進出とはそれを助けるという位置づけで考えていたのかもしれません。例えば「勅宣並びに御教書」という手続きを「国会の議決」として考えた場合、政治への進出をしなくても、国民の多くが創価学会に入信すれば、政治の世界は如何様にもなると考えていたのではないでしょうか。
一方の池田会長も、就任当時は戸田会長と同じ様に考えていたかもしれませんが、この頃になると創価学会に日本人の大多数が入信するという事は、実は現実的に難しく組織拡大にも限界点を感じていたのかもしれません。
私がこの様に思うのは、1965年(昭和40年)3月26日に池田会長は富士大石寺の正本堂建立に向けて「正本堂建立趣意書」というものを宗門に提出しました。その趣意書の中で「正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっております」と述べ、実際に正本堂建立時に創価学会の公称世帯数は800万世帯となっていました。
この800万世帯というのが一つのトリックで、1世帯には平均4人いるとすると、800万世帯で2400万人です。これにより実に当時の日本国民の3人に1人が創価学会に何らかで関与しているという見方も出来ます。また広宣流布のモデルとして「舎衛の三億」という言葉も、戸田会長の時代には言われてませんでしたが、一説には細井日達師に池田会長が追認させたという話もあります。
この様に考えてみると、実は池田会長は創価学会が組織の拡大のみで、このまま進んだとしても戸田会長の求めていた「王仏冥合」「国立戒壇建立」は難しいと考え、そこから政治の世界により深くかかわる事を一つの方策として考え、この公明党という政党を結成した時に合わせて衆議院にも進出を進めたのかもしれません。
ここまでが簡単にではありますが、公明党の生い立ちとなります。
創価学会と公明はその後、1969年(昭和44年)に言論出版問題を起こしてしまいました。この問題については、また別の機会で取り扱いますが、その先で国会では日本共産党から創価学会と公明党は政教一致では無いかとの指摘を受け、野党からは池田会長の証人喚問を要求される事態が発生。その結果としてそれまで「王仏冥合」「国立戒壇建立」という、公明党としても創価学会から引き継いだ党是を下げざるを得なくなり、1970年(昭和45年)5月3日に創価学会本部総会の席上、池田会長はそれまでの方針を一大転換し、日蓮正宗の国教化を目指しているとして問題視されていた「国立戒壇」(国会の議決で日蓮正宗の戒壇を作る)という表現をこれからは使わないとし、政教分離の点で批判の強かった創価学会と公明党を制度上、明確に分離すること、創価学会の「非民主的体質」を改めることなどを公約する事になったのです。
思い返せば、創価学会はその前身である創価教育学会の時から、「王仏冥合」「国立戒壇建立」を求めて進んできました。そして戸田会長はその一つの方策として政治の世界へ進出させましたが、池田会長の時代となって、現実路線としてその目的は達せられない事も見えてきました。また国内に於いても政治の世界で影響力も持つ勢力となってしまった事で、この政教一致とも取れる党是によって徹底して叩かれてしまいました。
そういう創価学会の中で、公明党は政治部門として産声を上げ、日本政治の政党として進む事になりましたが、今の公明党はこういった過去の総括をどこまでしているのでしょうか。
母体となる創価学会では願業とも言える「王仏冥合」「国立戒壇」という、創設以来の目的を取り下げ、その後、「文化・平和・教育」という三つの柱を中心に据えて、転身をはかりました。しかしその後、折伏の進みも鈍化してしまい、公称800万世帯を上限として、現在では組織が徐々に瓦解を始めています。
一方の公明党はと言えば、「王仏冥合」「国立戒壇」を取り下げ、「大衆政治」を前面に掲げてはいますが、具体的な政策ポリシーが見えない中で、昭和55年体制の時には野党の中で共に活動し、その55年体制が崩壊後、一旦は党を解党して新進党に合流しました。しかしその新進党が崩壊すると再度公明党を結成し、現在では自民党と共に政権与党を担っている形となっています。しかしやはり政治的なポリシーが無い為でしょうか、近年では自民党の補完勢力の様な立ち位置になり、そこに創価学会の組織力の低下も相まって、集票力も低下著しく昨年(2024年)には「常勝関西」と呼ばれていた小選挙区で議席を失う状態になっています。
公明党は日本の国政に本当に必要な存在なのか。単に自民党の補完勢力ではないのか。その実像については、今後の公明党の政治的な振る舞いの中で、国民に対して見えてくる事なのでしょう。