自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

日蓮について振り返る①

ここで日蓮について少し書いてみたいと思います。

昨日までUFOだ何だと書きながら、今回から日蓮の事を書くというのは、私自身もそのブレ幅で良いのか、と思う事もありますが、このブログでは私が今まで知ってきた事を書きながら、色んな事を考えていく事にしていますので、よろしくお付き合いください。

私が創価学会に初めて触れた頃、それは昭和50年代の事ですが、当時の私には、創価学会と言うのは「日蓮仏法」を信奉する団体であり、けして新興宗教ではなく、富士山の裾野にある大石寺の信徒団体だと教えられてきました。

その事から会合などには御書を持ってくる先輩も多く居て、時々は近所の日蓮正宗の寺院で勤行なんかもしていたのです。高校生の時には、同じ高等部員の仲間と近所の日蓮正宗の寺院で勤行もやっていたりしていました。

また男子部に入った時にも先輩からは「富士の清流七百年」と教わったり、その当時は創価学会の中でも「登山会」というのが行われており、同じ支部の男子部仲間と一緒に大石寺に行ったりもしていました。

その当時の写真は、今の私の手元にもありますが、若い私も仲間と一緒に笑顔で正本堂の前で写真に写っています。

また創価班に入ってから「輸送担当創価班」として、多くの会員を引率し大石寺に行っていましたし、その後に「本山担当」もやっていましたので、2か月に1回は大石寺に行っては登山会の運営の一端を担ってもいました。

本山担当では「二部四班」が担当で、判る人(もう今では僅かでしょうが)は判ると思いますが、この担当になると御開扉が最前列のど真ん中でできるんです。見上げると小さく見える板曼荼羅。あの池田氏にそっくりなレリーフも遠くに見えたりして。

また平成の時代に入り、「第二次宗門問題」が勃発した時には、当時、創価学会では「自分達こそ日蓮正宗の担い手なのだ」と教えられ、その後に広宣部を担うようになった時には、御書と共に日寛師の六巻抄と富士宗学要集を首っ引きで学びながら、法華講幹部や妙観講、また時には顕正会とも対論の場をいくつも経験し、中には所化と対論をした事もありました。

しかし長年にわたり創価学会の活動をするうちに、細かい疑問が多く積み重なった事もあったのでしょう。四十代になった頃に活動をスピンアウトする事になった経緯については、以前の記事でも書かせて頂いた通りです。

創価学会の活動を止めた理由① - 自燈明・法燈明のつづり

この私が組織活動から離れた事で、組織内では様々な言葉が流れていましたが、今になってはそんな事はどうでも良い事なのです。ただ活動を止めた時に、池田氏の事を知りたいと思う事と同じく、それまで信じてきた日蓮についても知りたいという思いも強くあり、様々な史跡をめぐりながら、時には様々な人たちの話を聞きながら、自分なりに日蓮の事を調べてみました。

ただ難しかったのは、池田大作という人物は、私が活動を止めた当時は生きていて、比較的、近くで池田氏を見聞きした人物もいたので、少ないとは言えそういった人たちからの話で実像を掴む事が出来ました。

しかし日蓮は違います。

日蓮が生きた時代は、日本史で言えば鎌倉時代承久の乱の翌年に生れ出た人物であり、七百年以上の時間が経過してしまっています。その事から資料についても信用に能う資料があるのか、そこすらとても心もとない状況だったのです。

何しろ、これは活動を止めて様々な有識者と語らう中で理解できた事なのですが、御書と言う日蓮の残した著作物の中でさえ、真書もあれば偽書も平気で混在している始末なのですから。

これでは日蓮の実像を掴みたいと思っても、そう簡単な事ではありません。

そんな状況の中なのですが、まずは私自身が手が届く範囲の資料を元に、日蓮の事を模索する事にしました。

これから書いていく事は、そういった状況の中で、私自身が理解した日蓮像についてです。それはけして「久遠元初自受用報身如来末法の御本仏、日蓮大聖人」ではありません。歴史の中でかすかに見えてきた日蓮の像であるという事は、是非念頭に入れて頂きながら、読んでいただけると幸いです。

内容が内容なだけに、過去に記録した資料を元に、再度、様々な資料を読み込み書いていきますので、遅々として進まない時があったらご容赦の程、よろしくお願いします。