
日蓮について続けます。
幼名を「善日麿」と言っていた日蓮は、道善房の下で15歳で得度して「是聖房蓮長」と名乗ります。清澄寺にある一切経を読みつくし、その後、鎌倉を訪問し遊学したと言います。
◆青年修学時の日蓮
昨日の記事では「虚空蔵菩薩への願い」について書きましたが、日蓮宗系では日蓮を仏菩薩の様に捉え、この虚空蔵菩薩から得た「宝珠」という暗喩から、日蓮をまるで悟りを得た事の様に考えて、日蓮は既にその段階で自解仏乗(すでに悟りを得)の人の様に捉える向きもありますが、実は青年時代の日蓮は様々な悩みと思索を来りかえしていた様に思えます。
恐らく師匠の道善房から、この日蓮の抱える悩みを解決するヒント(宝珠)は与えられたと言っても、それをもって日蓮が抱えている悩みを解決するためにはまだまだ時間を必要としていた様です。
この清澄寺で12歳から16歳までの期間、蓮長(日蓮)は鎌倉を訪問し、一切経の閲覧などを行ったと言われます。またこの鎌倉へ行った際、円多羅義集というものを書写して持ち帰ったと言われています。この円多羅義集とは天台密教書であり、清澄寺はそもそも天台密教の寺院であった事から、この時代の蓮長は当然、天台密教を学んでいたのでしょう。
また後に師匠道善房が阿弥陀仏を建立した事を非難していましたが、当然、この当時の日蓮は念仏も学んでいたと思われます。しかし念仏宗の善無畏三蔵が「死する時は黒皮隠々として骨甚だ露る」と伝記にあった事について、その答えを求め訪ね歩いても、明確な答えが得られない事から、念仏に対しては早々と論理的に見切りをつけていた様です。
「法然、善導等が書き置きて候う程の法門は日蓮らは十七八の時より知りて候いき」(南條兵衛七郎殿御返事)
そして20歳になった蓮長は、比叡山への遊学が認められました。当時、おそらく比叡山への遊学は優秀な僧でなければ認められず、蓮長は「戒体即身成仏義」という論文が認められての事であったと言われています。
この戒体即身成仏義では、蓮長が慈覚・智証という天台高僧の法華・真言、「顕密二教」の教学を受け継ぎ、「理同事勝」に同意していた事が顕著に表れている論文と言われています。ここで言う「理同事勝」は後に日蓮が真言宗を破折する際に否定した事ですが、法華宗と真言宗は一念三千という理論は同じであったとしても、真言宗では印と真言の秘法があり、即身成仏に違いがあるとし、真言宗の方が優れているという理論です。またこの戒体即身成仏義では、法然の提唱していた念仏が間違いである事を指摘し、浄土宗では成仏できない事も指摘しています。この辺りは後の念仏宗への批判が、この年代で蓮長の中で既に確立していた事が伺える内容です。
比叡山に登った蓮長は、三塔の総学頭の大和庄俊範法印と面会し、東塔の無寺が谷にある円頓坊に住み学ぶ事になりました。その後、ほどなくこの円頓坊の主宰となり、横川の華光坊の主宰も兼務したようで、そこから蓮長の優秀さが見て取れます。
26歳になると南都七大寺、高野山、天王寺をはじめ有数の寺を歴訪し、その間に四回、一切経を閲覧したと言います。
ここでは蓮長が真言密教の奥義秘伝を学び尽くしたと言われており、真言宗流派の一つである理性院派の第二十五祖、弘法大師からは第十九祖の祖師として名前を連ねていると言われており、これは本幡観音堂の真空律師から受けた血脈次第に、蓮長の名前が記載されている事からも解ります。
私が男子部の時、蓮長が清澄寺から比叡山にかけての時期で、特に初めての御書と言われる「戒体即身成仏義」の存在を知った時、それをすぐに肯定する事は出来ずに「偽書だ」と考えていた時がありました。しかし冷静に考えてみれば、当時の清澄寺は天台密教の寺院であれば、当然そこで真言密教に触れる事もあった事は容易に想定できる事です。良く言われる「虚空蔵菩薩への請願」も、師匠道善房との間での出来事の暗喩であり、そこで「悟りを得た」という事でも無ければ、何も蓮長は「自解仏乗の聖人」でも無かったのです。だからそのような修学過程があった事を否定するものでは無いと思いますし、むしろ比叡山の修学で真言宗流派の一つに祖師として名を連ねていた事は、むしろ蓮長の徹底した究学の姿勢の表れであったと思うのです。
ここは私の私見ともなりますが、清澄寺で師匠道善房から法華経の事に触れ、それを突き詰めるために比叡山に登り、蓮長はそこで天台法華と共に真言密教系を突き詰めていったのではないでしょうか。またこの時、蓮長は天台密教に足場を置いていた学究の徒でした。その彼の心の中には、清澄寺で仏教を学び始めた時からの大きな疑問として「承久の乱」の事もあったのではないでしょうか。
承久の乱で朝廷方は真言祈祷によって、関東調伏を祈らせ、北条義時の討伐を企てましたが、結果として朝廷方は敗れるだけではなく、それまであった朝廷の権威を失墜させる結果となってしまいました。そればかりか新興勢力である武家政治を勢い付かせてしまい、そこから世の中の乱れが大きくなってしまった。
その事から、真言について大きな疑問を持っていた事も考えられますし、それを原因について解決したいと言う思いが強くあったのかもしれません。
27歳で蓮長は比叡山に戻り、そこで定光院に住み修学に努め、30歳では比叡山を下り三井寺(園城寺)に入りました。恐らくこの頃になると、日蓮の中では長き修学の結論として法華第一の思想が固まっていたのかもしれません。その後、三井寺を出て故郷の安房小湊の清澄寺に戻る事になりました。
この時、日蓮の青年期、蓮長の比叡山修学は十年以上の時間が経過していたのです。
【参考文献】
訂訛日蓮聖人伝 倉沢啓樹著
日蓮伝再考 山中講一郎著