
私は創価学会男子部の時、とある日蓮正宗寺院の法華講の青年部幹部と対論をした事がありました。その時、法華講青年部幹部が私にある問いを投げかけて来たのです。
「斎藤さんは、御書を読むと言っていますが、もし創価学会教学部の見解と、池田大作の見解が異なった場合、どちらの見解をとるのですか?」
この問いに対しての私の答えは「その場合、御書に立ち返り判断します」でした。
すると法華講青年部幹部は畳みかけてきました。
「あなたは仏様の想いがお判りになるのですか?何故誰の指導も受けずに御書を読めるのですか?」
これに対する私の回答は以下のものでした。
「日蓮大聖人の御書と言っても、基本は門下や信徒などへのお手紙です。それでは聞きますが、例えば大聖人が四条金吾に送った御書は、三位坊など大聖人の弟子が一緒にセットについていって、四条金吾に講義したんですか?」
これを言うと法華講青年部は目を白黒して、まるで鳩が豆鉄砲食った様な顔になっていました。
私は男子部時代から考えていた事は、参考として先輩や教団の講義録はあると思いますが、日蓮大聖人の仏法を学ぶには、学ぶ側もそれ相応に思索や研鑽は欠かせないという事です。確かに個人で学ぶには限界があります。しかし世の中には多くの良書も存在していますので、それらを頼りに研鑽する姿勢はとても大事なのではないでしょうか。
また宗祖とか始祖と呼ぶのは良いのですが、それらの人は人間です。人間であれば、下手な忖度など必要はないし、場合によっては忖度した事で、重要な事実を見過ごす事もあるのではないでしょうか。
「日蓮大聖人は久遠元初の御本仏なんだ」
この様な忖度が、実は日蓮の実像を見えなくしてしまう危険性があると、私は考えているのです。
◆日蓮と名乗る
さて20歳から比叡山に修学へ登り、10年ほど経過して31歳になった蓮長は、安房小湊に戻り、名前を日蓮と名乗ります。
この日蓮とは如何なる名前なのでしょうか。
青年期は是聖房蓮長と名乗っていました。師匠の道善房の詳細の名前は判っていませんが、その兄は道義房義尚と呼ばれていたので、房の下に名前があったと思われます。
では日蓮はと言うと、これは「行敏御返事」という御書に「日蓮阿闍梨御房」という記述がある事から、阿闍梨号ではないかと言われています。では日蓮という号は自身が付けたのか、そこは判りませんが、比叡山修学を終えた蓮長は阿闍梨称号を得て、日蓮と名乗った事が判ります。
◆立教開示
さて、比叡山の修学をおえて建長五年(1253年)4月28日に日蓮はふるさとの安房小湊に戻り立教開示したと言われています。
日蓮は、比叡山修学で自身が確信した教えについて、まずはじめに故郷にある清澄寺の同門の仲間や、その地域の門信徒たちに伝えようと考えていたのでしょう。また日蓮の十年ぶりの帰郷を知った人たちも、日蓮がどの様な教えを学び戻ってきたのか、期待を以って集まっていたのかもしれません。
この小湊で日蓮が自身の学び掴んだ事を語った事を「立教開宗」とか「立宗宣言」という言葉で言っています。しかしこの時の日蓮は、果たして新しい宗派を立てるという事と考えていたのでしょうか。
「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず又末葉にもあらず」(妙密上人御消息)
これは門下の妙密上人に与えた手紙に書かれていた事ですが、ここでは自身がどこの宗派に属しているものでも無ければ、新たな宗派を起こす立場でもない事を述べています。例えば立正安国論の日興師の写本には「天台沙門 日蓮」と書かれてもいたので、立場的には天台宗の僧と自覚はしていたのかもしれません。ただ恐らく自身は釈迦、天台、伝教の流れを汲む一人として、そして心の奥底では法華経にある上行菩薩の再誕という覚悟だったのではないでしょうか。
そういう事から考えると「立教開宗」ではなく「立教開示」という言葉を、日蓮自伝考の著者、山中講一郎氏が提唱していた事に私は同意しています。
また立教開示についても、山中講一郎氏はぞれまでの「嵩が森の伝説」について再考していました。伝説では、「嵩が森」という場所で日蓮は、昇る朝日に向かい御題目を唱えた事が、末法初めての妙法の第一声だと書かれており、恐らく多くの日蓮宗派の人達は、その伝説を信じていると思います。
しかし確かに日蓮の御書を見ても、この嵩が森に関しては一言も触れていません。また「南無妙法蓮華経」というお題目は、天台宗の勤行要典の中にも書かれており、既に天台宗でも唱えていました。そういう事から考えてみても、そんなドラマチックな事は無かったのではないでしょうか。
また山中氏の「日蓮伝再考」によれば、日蓮の立教開示の会場は、小湊周辺にあった清澄寺関連の持仏堂で幾度かに分けて行われていたのではないかと推測されていました。
確かに当時、清澄寺といった一か所に人々が集まり、そこに日蓮が登壇して「末法の始めに南無妙法蓮華経」を唱えだし、そこで四箇の格言を述べ、それをそこに同席していた地頭の東条景信が、その日蓮の説法内容に激怒するというのは、映画のシーンとしては成り立つと思います。
しかし実際には、日蓮は地元の幾つかの持仏堂を巡りながら、自身の確信した教えを人々に語りだした。それを始めたのが4月28日からであった、という事の方がより現実的であったと思うのです。
そして語りだした事の中で、恐らく当時広がっていた法然の念仏宗に対する厳しい指摘が入っていた事は容易に考えられますが、それが人々の中に反感として広がりはじめ、結果として清澄寺を去り、故郷を出て行かざるを得ない状況が作り出されたのではないでしょうか。
【参考文献】
訂訛日蓮聖人伝 倉沢啓樹著
日蓮伝再考 山中講一郎著