
創価学会では、御題目を唱える事をとても重要視しています。
私が創価学会で活動を止めた時、それまでの仲間の幾人かは私に対して「御題目は唱えているんだよな?」とよく質問をしてきました。それは組織活動はやめても、創価学会の信仰は辞めていないよな、という確認の意味での質問であったように思うのです。
ただ今の私は御題目も唱えていなければ、文字曼荼羅にも向かっていません。しかしこれは私自身、信仰を捨てたとかそういう事ではなく、信仰に対する考え方が変わったからだと考えています。
ここまで日蓮の生い立ちから、立教開示までの事について書いてきましたが、ここで少し日蓮の「御題目」について考えた事を書いていきます。
◆御題目の意義
まず「南無妙法蓮華経」について、日蓮はどの様に考えていたのか。そこについて少し書いてみます。この御題目とは「妙法蓮華経」という、鳩摩羅什訳の法華経に帰依(南無)するという意味ですが、この辺りをもう少し掘り下げた考え方が御義口伝にあるので、まずはそこを参考として見ていきます。

この御義口伝は弘安元年(1278年)に日興師が口伝の内容をまとめたとされたもので、「口伝」である事から、この内容の真偽については疑問が呈されています。確かに口伝ではあるのですが、この内容について私は読む価値はあると思っていますので、ここではこれに沿って少し考えてみたいと思います。
では御義口伝に書かれている南無妙法蓮華経について。
この御義口伝ではまず、「南無」とは梵語(古代インド語)であり、「帰命」という意味があると述べています。もっと簡易な表現をすれば「帰命」とは「信じる」という事ですね。そしてこの「帰命」には「人に対する帰命」と「法に対する帰命」があると言い、人とは釈尊(釈迦)に帰命する事であり、法とは妙法蓮華経に帰命するという事だと言うのです。これは釈迦という人物を信じる事であり、妙法蓮華経に説かれている事を信じる事です。
また帰命のという言葉の意義は、迹門不変真如の理に帰し、本門隨縁真如の智に命く事だとあります。つまり「信じる」という事は、変わる事なき真実の理(ことわり)に立ち返りながら、常に縁に随う真実の智(考え方や行動の源泉)に基づき生きる事を言っているのでしょう。そしてこの帰命という事が南無妙法蓮華経だと言うのです。また天台大師の教えにある「隨縁不変一念寂照」とはこの事だと言っています。
ちなみに「隨縁不変一念寂照」は何の事を言っているのかと言えば、環境や状況に変化しながらも、根本の真理は一切変わらずに、それが心の中に静寂と智慧の光として輝いている事を言っています。
何となくニュアンスという表現は適切か、そこはありますが、ここまでで日蓮の言うイメージは掴めるでしょうか。
また帰命の帰とは私達の肉体(色法)を指し、命とは心(心法)を指すと言います。そして肉体と心が信じる事について不二(二つ別々ではなく協調して働く)で信じる事を言い、その事を天台大師は「一極に帰せしむ故に仏乗と云う」と述べたというのです。つまり心の中の思いも、それによる行動に於いても同じ様に信じる事を、帰命という言葉は指しているという事なのでしょう。
また南無妙法蓮華経の南無とは古代インド語の音訳(ナム、マナステ)から来た言葉であり、妙法蓮華経とは漢語(中国語)だと言います。これは当時の世界観(天竺・中国・日本の三国)から見て、日本国内に限定された言葉ではない事を指しています。
また妙法蓮華経は梵語では「薩達磨芬陀梨伽蘇多覧(サ・ダルマ・プンダリーカ・スートラム)」と言い、薩は妙、達磨は法、芬陀梨伽は蓮華、蘇多覧は経と訳された事を示し、この九文字は密教の世界観である胎蔵界曼陀羅の九尊を顕しているというのです。そしてそれは九界即仏界の意義を表現していると言います。
また妙とは法性(悟りの本質)、法とは無明(悩みの本質)をさし、無明と法性が一体である事を妙法という言葉は表しており、蓮華とは因果俱時を表現していると言います。因果俱時とは修行の中に悟りがあるという事であり、もっと砕いて言えば日常行動の中の悟りは存在しているという事です、そして経とは全ての人々の言語音声を指しています。天台大師はこの事を「声仏事をなす、これを名付けて経と為す」と言い、あるいは過去・現在・未来へと常に在り続ける事を指して経と呼んでいると言います。
そして法界(この現象の世界)は妙法であり、蓮華であり、経であると言い、それこそが密教の世界観で表現された八葉九尊の仏の事であると言うのです。
そしてこれらの事は能々思索していきなさい。という言葉でこの南無妙法蓮華経の部分は締め括られています。
さて、日々御題目を唱えている創価学会の会員や法華講の信徒、顕正会の会員たちは、この日蓮が「南無妙法蓮華経」に込められているという、ここまでの意義について、どれだけ理解をしているのでしょうか。
私はこの御義口伝にある意義を、自分の心と体に沁み込ませるように唱えるのが御題目を唱える本義だと思うのです。そしてそれはけして長時間にわたり「呪文(マントラ)」の様に繰り返し唱え、まるで祈祷師が如く祈るというのは違うと思います。日々の生活の中で、時間のある時、例えば朝な夕なに日蓮の教えを読み学びながら、各々が必要と思う時間、本尊の前で御題目を唱える。そういうものではありませんか?
「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候」(諸法実相抄)
日蓮が「行学の二道(行は修行で、在家信徒は社会生活全般を指し、学は学びで仏教やそれを深堀する為に学ぶ様々な事)」を大事にしたのは、そういう事があっての事ではないでしょうか。
日蓮が幼少の時に大いなる疑問を持ち、清澄寺や比叡山で20年近くに亘り修学した後、知りえた事とはこの御題目に濃縮されてある事なのでしょうが、そういった事を理解する必要は無いと考えているとしたら、それは日蓮仏法を信奉する姿勢として良い事なのか。そこについて振り返る必要があるのではないでしょうか。