自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

御題目について考えた事②

さて、創価学会では御題目を唱える事を勧めます。それは「祈りを叶えるため」であり、「自分の宿業を転換するため」であったりします。

◆唱題について

この御題目の唱え方として創価学会で教えるのは、文字曼荼羅の「妙」の字を見つめて、ただひたすら御題目を繰り返し唱える事を教えます。これが唱題行だという事ですね。

この唱題をした事のある人は経験あると思いますが、その最中には様々な思いが頭の中を過ぎり始めます。生活の事、仕事の事、また自分の周囲に起きている様々な些事の事など、いろいろと頭の中を駆け巡ったりします。

同じ言葉を口で繰り返し唱え、そして視線は文字曼荼羅の一点を凝視する。

私はこの唱題行は、実は「内観行」に極めて近い行いではないかと思うのです。その昔、社会で大問題を引き起こした「オウム真理教」がありましたが、そこでは「マントラ(呪文)」を口で唱えながら、視覚は装着した機器で写した映像を見せる事で、人の潜在意識の中に働きかける事をしていましたが、これも言わば「内観行」の一類にはいるのかもしれません。

最近では「座禅」を行う外国人観光客もいますが、日本の中では心を落ち着けるために寺院が行う座禅に参加する人は以前から居て、仏教での中で瞑想行として座禅を行う事は禅宗では昔からやっていました。

中国の天台宗ではこの座禅を内観行を行う方法としても用いていた事は有名で、これは天台大師の時代からであり、当時、天台宗禅宗と呼ばれていた事から解ります。この時代、中国にも禅宗はありましたが、そちらは達磨宗と呼ばれていたそうです。それほど天台宗では内観行を行うために修行僧は座禅に取り組んでいた様です。

この内観行と言われる行いですが、実はかなりリスクがあるという事が、近年になり解りました。この事は私が男子部時代でも、幹部の間では言われていました。

人が不用意に自分の心の奥底にある「無意識層」にアクセスすると精神的に不調をきたす場合もあり、場合によっては重度の精神疾患を発症してしまう事があるというのです。これについては以前にこのブログでも少し書きましたが、禅宗で言う「魔境」というのもその一つでしょう。

禅宗の魔境とは、座禅の修行に取り組む中で、修行者は仏や菩薩を見たり、極楽浄土を体験したりする場合があると言います。そういう時、禅宗では現れた仏や菩薩を殺せと教えていると言います。人はこの座禅の中で経験した事に執着を持ち、それに強く固執してしまうので、結果として修行の障害になるので、それを否定しろという事なのでしょう。

確かに創価学会でも、例えば統合失調症鬱病などの精神疾患者に対して、長時間の唱題行は止める様に、幹部によっては指導しています。ただこの「幹部によっては」という属人的指導にも問題があって、別の幹部の中にはあえて取り組ませる指導をする人も居たりします。

これは私の体験ですが、私が若い頃、地区の中に重度の統合失調症の部員がいました。ある時、真冬の早朝の午前五時頃に、当時私はアパートで独り暮らしをしていましたが、その玄関を「ドンドンドン!」と叩き続けられました。この早朝に誰なんだと玄関を開けると、その統合失調症の部員が冬にも関わらず、下はジャージ、上はタンクトップ姿で無精ひげを生やした姿で立ちすくんでいました。「斎藤さん!助けてください!」。理由を聞くと駅前でこの部員を殺す事をたくらむ人たちがいて、その会話が聞こえて怖くなり、助けを求めて私の部屋まで来たというのです。この時は何とか宥めすかし、この部員を自宅に帰らせました。

ある時、地区リーダがその部員の家を訪問し、長時間にわたり御題目を一緒に唱えたというのです。見るとその統合失調症の部員は、しっかりした身なり、無精ひげもしっかり剃ったこぎれいな姿で地区リーダの脇に立っていたのです。

「斎藤君!御題目ってやっぱり凄いよなぁ!」

地区リーダは満面の笑顔でいましたが、正直、この時の私もこの部員の姿の変りようには驚愕しました。その部員も「僕はやっとまともになれました!」なんて笑顔で語っていたのは記憶に残っています。

しかしそれから一週間後、その部員は部屋から出てこなくなりました。そこで私が訪問すると、以前よりも確実に悪化した姿の部員がいました。口の端からよだれが垂れて目が虚ろ、会話もまともに出来ない状況になっていたのです。

要は激しいリバウント状態になってしまったんですね。

この事について、当時、県青年部長と懇談する機会があって話をした時言われたのが「精神疾患の人に唱題行はやらせるな!」という話でした。やはり心を病んでしまっているので、そういう人に唱題行は危険だというのです。まずは病院でしっかり時間をかけて治療をやるべきだと言われたのです。

日蓮の考えていた御題目

この「御題目を唱える」という事を提唱したのは日蓮ですが、では日蓮はこの事についてどの様に考えていたのでしょうか。唱法華題目抄にそのあたりの記述についてあったので、少し引用してみます。

「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」

ここでは「行儀」と呼んで、御題目を唱える姿勢について述べています。その姿勢はまず本尊の前に座って行うべきだと言っています。しかし本尊の前以外では、姿勢は特に定めないと言い、そこでは常に「南無妙法蓮華経」と唱えなさいとあります。

またそこで余裕があれば経典の一句一偈を読むべきであり、御題目の助縁として「南無釈迦牟尼仏」とか「南無多方如来」、また「南無十方諸仏」など、心に随って行いなさいと言っています。ここでの日蓮の考え方には、専修念仏の様にひたすら御題目のみを長時間唱える事は述べていません。

また「愚者」とありますが、仏教に疎い人たちには一念三千の内観を行わず、もし行いたいという人がいれば、必ず内観の事を習ってから内観行は行いなさい。とあります。

どうでしょうか。

これだけを読むと、日蓮が今の創価学会の様に「100万遍のお題目」とか「十時間唱題」という事は述べていません。むしろ仏教に疎い人が内観行を行う場合には、まず基礎的な事を習ってから行いなさいと言っています。先にも書いた様に、いま創価学会などがおこなっている長時間の唱題という、内観行の様な修行法については日蓮は必要であると言ってはいないし、やるならば学んでから行いなさいと述べているのです。

因みにここで「本尊」についても、この御書の前段にあるので、そこも紹介しておきます。

「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」

ここでは法華経を信じる人の本尊と行儀についてどうするのか、という問いから入っています。それに対して「答えて云く」と、本尊については法華経八巻一品、あるいは御題目を書いて本尊としなさいと述べていて、これについては法華経法師品と神力品に見られていると述べています。また余裕があれば釈迦仏や多宝仏を書写しても、仏像として造ってもいいが、それは法華経の左右に配しておくべきである。また余裕があれば十方の諸仏菩薩を仏像として造っても描いても良いと言っています。

この唱法華題目抄は、日蓮が文字曼荼羅を顕す以前なので、この様な内容になっていますが、ここでは「題目と書いて本尊と定む可し」が、後に文字曼荼羅となったと捉える事も出来るでしょう。

これは本尊についてなので、詳述するのは別の機会としますが、理解すべきは本尊は「文字曼荼羅でなければならない」と、日蓮は定めていないという事です。