
さて、もう少し御題目の事について考えてみたいと思います。
◆御題目の音律
私の父親の実家は日蓮宗です。そして叔父(父の兄-故人)は身延山に修行に行って、何でも戒名を付ける資格を取ったと言っていました。その叔父や同じく別の叔父(父の弟-故人)も日蓮宗を信じていました。そして二人が唱える御題目は「なむ・みょうほうれんげきょう」と、意外としっかりした発音で一回一回、仏壇の前で丁寧に唱えていました。
宗門問題以前、私は地元の日蓮正宗寺院で偶に日曜の朝の勤行会に参加していましたが、そこでは唱題となると所化が和太鼓を叩き、そのリズムで参加者全員が「なんみょうほうれんげーきょー」と繰り返し唱和をしていました。
そして創価学会では、師匠の在りし日の本部幹部会で池田大作氏が導師の時、池田氏は「なんにょーほーねんねぎょー」と唱えていましたよね。(大誓堂で流す音声データではどうなのか、私は一切参加していないので、そこはわかりません)
この様に、同じ日蓮門下にも関わらず、御題目の発音というのは異なります。
1992年4月、池田大作氏は世界的なバイオリニストであり音楽家のユーディー・メニューイン氏と会談し、そこで御題目の事を「妙なるリズム」とか「律音(人々を奮い立たせるリズム)」という事で語らっていました。しかし御題目の唱え方は人ぞれぞれで、創価学会の中でも発音については統一化したものを教えている訳ではありません。
「なんにょーほーれんげにょー」という人も居れば、長時間の唱題の時には「なんみょれんきょ」をひたすら繰り返す人も居たりして、若い頃の私はこれで良いのかなと疑問に思った事もあります。
ちなみに鎌倉時代の日蓮は、この御題目をどの様に唱えていたのか、そこは現在、正確に伝承されていないので、実はわからないのです。そもそも日本語の発音自体、鎌倉時代と現代では結構異なっていたりしますからね。
だから御題目の発音自体に、私はそれほど重要では無いかと考えているのです。
◆教団間での差異について
「南無妙法蓮華経」というお題目ですが、唱える時に、例えば日蓮宗信徒の唱える御題目と、日蓮正宗の信徒の唱える御題目、創価学会の唱える御題目、顕正会員の唱える御題目。これらに差異はあるのでしょうか?
発音、その発音の元になる文字には一切差はありません。
この事について少し考えさせられる出来事を、以前、私は経験した事があります。
私が活動を止めた時、あるきっかけで地方都市の、とある学会関連企業に勤務する男子部幹部からネット上で罵倒された事があります。それは私が創価学会の事を疑問視し、池田先生に対しても疑問視する事、そしてネット上でそれを公表する事は、即ち破和合僧という五逆罪の大罪にあたるので大きな仏罰をうけるだろうと言うのです。
この手の話はよくある事なのですが、メールで幾度かやりとりした後、彼はそのように私に言い捨て去っていきました。私も別に彼を追う必要性も無いので、彼との対話はそこで終了したのです。
それから半年後の事です。この男子部幹部からメールが来ましたが、そこには彼が創価学会を脱会し、法華講に入ったという事が書かれていました。
直ぐにメールを返信し、理由を尋ねると、彼はとある地方都市の学会関連企業で仕事をしていたのですが、最近になって学会員の中に多くの不幸を立て続けに見たというのです。そこで疑問を持ち、法華講と接触、ここで少しずるいと思ったのは彼本人が法華講に移る前に、仕事で知り合った組織の人の幾人かを法華講に入講させ、状況を見たところ、皆が不幸な状況から脱する事が出来たというのです。
「やはり偽本尊の害毒がある事が判ったので、大石寺の正しい信心に付くことにしました」
そんな事が書かれていました。
彼には家族や子供も居て、親族はみな地方都市の幹部だそうですが、これから大変なのでは無いかと質問すると、「正しい信心を力の限り語りぬいていきます」で締めくくられた返事が返ってきました。
正しい信心、、ねぇ。
ここで私が思い出した事があります。それは男子部時代、広宣部で対論した、とある若い法華講の夫婦の事です。
第二次宗門問題が起きた時、この夫婦は私の地元組織内にビラを撒きまくり、そればかりかとある婦人部幹部の家にも度々訪れ、創価学会の偽本尊とか、その間違いを指摘する内容を言って「早く法華講に入りなさい」と言ってきました。
この事から、当時広宣部に居た私の処に婦人部経由で相談が入ってきましたので、日時を決めて対論する事になりました。
この対論では、夫婦揃って鼻息粗くやってきましたが、当時の私は御書と六巻抄、また過去の歴史的な資料、あと富士宗学要集などを引用して、徹底的に破折をしたのです
「御本尊に偽物とか本物とかはなく、法主のみに伝承される特別な血脈なども無い」
これが私の主張でしたが、それに対しては一切反論できなくなり、旦那からは「所詮、信心は現証に過ぎずだから、こんな暴言を吐いた貴方の身に不幸がくるぞ」と言ってきたので、私は「どう思おうがあなたの勝手ですが、それを言うなら今回一切反論できないご自身の事を心配なさるべきではありませんか?」と返したのです。
そして対論は終り、一週間経った頃、先の法華講夫婦の知人でもあった婦人部から連絡がありました。何でも私と対論して翌日から、あの夫婦の子供が原因不明の高熱が発症し、かなり憔悴しきっているとの事でした。私は婦人部に、法華講だ学会だではなく、しっかりと面倒を見てあげてくださいとだけ伝えました。
これは先の脱会した男子部幹部と真逆な事ですよね。
◆信仰体験という事について
私は当時から感じていた事ですが、信仰体験というのは、その信仰対象に依るものではなく、その信仰をしている本人の心の奥底に、体験を発動する「力(ちから)」があるのではないでしょうか。
これは日蓮の御書にも引用されていますが、華厳経第十には以下の事が説かれています。
「心は工みなる画師の如く、種種の五陰を画き、一切世界の中に法として造らざる無し」
これは、人の心とは巧みな画家の様に、様々な事を周囲に作り出し、この世界の中に心が造り出さないものはない。という意味です。
つまり人が幸福を感じる出来事に会う事も、不幸を感じる出来事に会う事も、突き詰めて言えば、その本人の心がその人の周囲に描き出している事なんだという事です。だから創価学会の言う「功徳(御利益)」も「罰(不幸)」も、それはその人本人の心が造り出している結果に過ぎないという事でしょう。
だから法華講がいう処の「偽本尊の現象(罰)」という事も、実は文字曼荼羅とか、そこに唱える御題目とかではなく、その人自身が、その文字曼荼羅をどの様に感じ拝しているのか、御題目もどの様に思いながら唱えているのか。そこにこそ原因があるのではないでしょうか。
例えばある人は、創価学会の対宗門に対する言動を、実は不信に感じながら、創価学会の授与する文字曼荼羅に祈って行けば、そこには相応の結果が、その人の生活の中に現れる事もあるでしょうし、その逆もまた然りです。
ただ悩ましいのは、この「心」というのは本人すら、日常生活の中で動きを感じ取る事は出来ないという事です。これについては近年、深層心理とか心理テストをやって、自身の以外な本音を知るなんて事でも認知され始めています。仏教においては唯識派の論から出ている「九識論」において、その辺りの仕組みが説明されています。
だから「正しい」とか「間違えている」、「正法」とか「邪法」なんていうのは、信仰体験からでは判断できない事であり、それはここで引用はしませんが、日蓮も唱法華題目抄に明確に書かれている事なのです。
しかし法華講にしろ、創価学会にしろ、それら組織に居る人たちはこの大事な事を理解すらしていません。何故なら、御書を勉強していないからですね。
だって唱法華題目抄という御書は、日蓮が著した御書で一番初期のものです。初期という事は、大事な原則が書かれている内容なのですが、それを読んで勉強している人はいないですよね?
結果、どうなるかと言えば、単に「信仰体験」という「現証」だけに拘っていて、それぞれの教団に翻弄されているのが現実なのではないでしょうか。
「御題目を沢山唱えた」「そうしたらばったり会えなかった知人に会えて選挙のお願いが出来た」「やっぱり御本尊様は凄いですよね~♪」と活動報告している創価学会の女性部幹部も、この時期には居たりしますが、それって本当に「御本尊様の功徳(御利益)」なのでしょうか。私から言えば、それは自身の心の働きの結果であり、それに依ってより創価学会の組織に対する依存度を高めているだけの様に思えるんですけどね。
以上が、私が御題目について考えた事です。