自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

日蓮の清澄寺追放

今回から日蓮の話に戻ります。

前の記事( 日蓮について振り返る⑤ - 自燈明・法燈明のつづり )では比叡山延暦寺の修学から戻った日蓮は、清澄寺の持仏堂で人々に対して、己が確信した教えについて説き始め、結果としてそれが日蓮清澄寺追放という事に結びついて行った事を書きました。

今回はその内容について、もう少し書き下しをしてみたいと思います。

◆東条御厨について

この清澄寺追放の事を理解するためには、東条御厨について知って置く必要があります。

東条御厨とは、源頼朝が伊豆で挙兵後、石橋山の合戦で、相模の国の大庭氏に敗れ、命からがら真鶴から小舟に乗り安房の国へ逃走し、そこで再起を図るために安房国東条郷にある荘園を伊勢神宮に寄進したと言われていて、そこに御厨が建立されました。

私は2022年7月頃に、この東条御厨を訪れましたが、現在でもそれは残っています。場所は今の鴨川市の北側の山沿いにあって、左がその写真です。

この時、地元の初老の男性と話をする事が出来ましたが、歴史的な位置としてはもう少し海側に昔はあったそうです。しかし近年になって今の場所に移築したらしいとの事でした。

そしてこの荘園の管理をしていたのが、日蓮の御書にも度々登場する「領家の尼」という女性でした。これは荘園領主の妻で、尼と呼ばれているので、夫の死後に出家した身分であったのでしょう。またこの荘園のバックには清澄寺が保護寺院としてついていたのではないでしょうか。荘園の保護を寺院がするというのは、当時、珍しい事ではありません。日蓮と領家の尼の関係は、こういった背景の下でつながりを持った事とも考えられます。

そして承久の乱以降、朝廷に幕府が勝利すると幕府側の威光は強くなり、それは必然的に安房の国東条郷でも、地頭の東条景信が力を付けてた事を意味します。当然、東条景信はこの東条郷にある荘園にも触手の手を伸ばそうとしますが、そこには古刹寺院として清澄寺が存在していた事もあり、攻め手をあぐねていました。

そこに日蓮比叡山延暦寺での修学を終え、帰郷してきたのです。

◆清涼寺大衆内の内紛

帰郷してきた日蓮は、同門の清澄寺の僧侶内に留まらず、自身の確信した教えを清澄寺門徒たち(在家信者)にも広く語りかけた事は想像に難くありません。そこでは当然「法然房の念仏宗の教えは釈尊本義の教えではなく、信じれば無間地獄へ堕ちてしまう」という辛辣な言葉もあった事でしょう。この日蓮の説法を聞き、素直に改心する門徒もいれば、何を言うか日蓮比叡山で気が狂ったのか、と激高する門徒もいたかもしれません。

それまで清澄寺天台宗の寺院として、地元にありそれなりに権威を持ちながらも、人々の尊崇を集め、講中も穏やかであったのですが、帰郷した日蓮の説法が大きな問題を清澄寺門徒衆の中に巻き起こしてしまった事は容易に想像がつきます。そして日蓮に反感を持った門徒の中には、地頭である東条景信に内通した人物も当然いたと思うのです。

過去に日蓮を扱った映画や物語では、日蓮の説法の場に東条景信がいて、日蓮が「念仏無間!」と言うと、「何を小癪な坊主が!ただではおかんぞ!」と東条景信が席を立って出ていくシーンがあったと思いますが、実際には地頭が日蓮の説法する「諸仏坊の持仏堂」に来ていたとは思えません。仮にも鎌倉幕府の代官である地頭職にある人物が、そんな一僧侶の帰郷の説法会に来るはずがないのです。まだこの当時、日蓮比叡山の修学から戻ったとは言え、いわば無名の僧侶に過ぎません。

しかし東条景信は、この小湊の人々からの情報で、清澄寺の内紛の兆しを嗅ぎ付けました。そして好機とばかりに清澄寺に対して圧力をかけ始めたのではないでしょうか、自身も念仏宗の信徒であるという口実を以って「日蓮許すまじ!」と。

それまで地頭の横やりから荘園の保護を何とかやってきた清澄寺としては、寺院内の僧侶内でも騒ぎとなり、門信徒の中は日蓮の説法で上へ下への大騒ぎとなる中、この地頭の横やりを収めるためには、先ずは日蓮清澄寺から追放するしかない。その様に結論を出したと思うのです。

結果として日蓮は自身の説法によって、故郷の清澄寺を追われる事になったのではないでしょうか。

◆法難の縮図

日蓮宗派や創価学会でもそうですが、日蓮の法難を単に「日蓮法華経を信じるが故に受難した出来事」と考えています。しかしその背景には、往々にして日蓮の思想と言動が、既存の既得権益の人達にとって不都合となり、結果として既得権益者から最大の障害物となった日蓮は、様々な迫害受ける事になったという構図が十分に考えれます。

日蓮にとっては自己の主張は極めて形而的(思想的)な主張だと考えていたのかもしれませんが、それが巻き起こす事は結果として既得権益の破壊にも通じる事にもなったので、その既得権益者からの迫害という事が起きたのではないでしょうか。

この清澄寺で起きた日蓮追放という事件は、それ以降の日蓮の迫害の人生の構図を、そのまま体現している出来事だと思えます。

 

【参考文献】
訂訛日蓮聖人伝 倉沢啓樹著
日蓮伝再考 山中講一郎著