日蓮の事を続けます。
安房国小湊の清澄寺を追放された後、日蓮が鎌倉に居を移した事は知られていますが、では実際に何時頃の時期に、鎌倉に居を移したのか、そこは明確に語られる資料はありません。一般的には建長六年(1254年)頃と言われています。
◆鎌倉入りについて
地頭の東条景信から追われる立場にもなっていたので、小湊周辺にいる事は、恐らく難しかったのではないでしょうか。その場合、東京湾を船で渡ったのか、それとも上総国から下総国を経由して陸地伝いに行ったのでしょうか。建長五年に立教開示を行いましたが、そこから半年以上は経過しているので、そこは陸伝いに行ったと考えるべきなのかもしれません。
当時の鎌倉は幕府の所在地である軍事拠点です。踊念仏の一遍上人は、小袋坂(巨福呂坂)から鎌倉入りしようとしましたが、守備兵に追い返されたと言います。しかし日蓮は比叡山で阿闍梨号を取得している事もあり、過去に何度か鎌倉を訪れていた事もあったので、入り込むことは出来たのでしょう。
日蓮が鎌倉で拠点としたのは、名越の切通方面の場所と言われ、松葉が谷(まつばがやつ)と言われています。現在では鎌倉市大町四丁目付近です。ここには名越氏(名越流北条氏)の住居の近辺なので、名越と呼ばれていましたが、鎌倉時代には松葉が谷とは呼ばれていなかったと言います。この名称は後世に付けられたとの事でした。
この辺りには現在、安国論寺と妙法寺があり、それぞれに草庵跡と言っていますが、どちらが草庵地であったのか、これも現在では明確な資料などが残っていないので不明です。
恐らくこの周辺に居場所を構えていたとは思います。
・鎌倉 安国論寺
・鎌倉 妙法寺
日蓮はこの鎌倉で弘教の行動を始めた事は、想像にかたくありません。故郷の小湊を追放されはしましたが、当時の日本の新興都市である鎌倉で、弘教の行動を開始したと思うのです。
◆辻説法は行ったのか
日蓮と言えば弘教するために「辻説法」を行ったと言われています。しかしこの事について、「日蓮伝再考」の著者である山中講一郎氏は否定的な立場をとっていますが、私もこの意見に同意します。
現在に於いても、例えば駅前などで顕正会などが機関紙を持ち、人々に声を掛けたりしていますが。これで話を聞く人はほとんどありません。ましてや鎌倉時代では、辻説法の人に耳を傾けて話を聞き、宗旨替えを行う人は、今より少ない事が考えられます。そういう意味で日蓮も、実は地道に人脈を作りながら弘教の行動は始めたのではないでしょうか。
ただ鎌倉で顔が知られて来た場合、時には道端で声を掛けられ、そこで対話をするという事もあった事は想像できますので、そういう姿が後の時代に「辻説法」という事で語り継がれてきたのかもしれません。
◆教団の黎明期
日蓮が鎌倉に入るくらいの時期かもしれませんが、日昭師が最初に日蓮に弟子入りをしました。これは建長五年十一月頃と言われているので、恐らく日蓮が鎌倉入りする頃だった様です。この日昭師は比叡山で日蓮とは同学で、一歳年長と言われています。日昭師は近衛兼経の猶子でもあり、比叡山では権律師という資格を若くして得たと言われており、同年代の中でも秀才であったようです。これは伝説ですが、日蓮が比叡山で修学していた時、日昭師とはいずれ鎌倉で立教開示する時には、ともに法華弘通を行おうと約束していた間柄だったという説も存在します。思うに日昭師と日蓮の関係は、一般的な師匠と弟子というよりも、教団の共同経営者的な関係であったかもしれません。何故なら日蓮は日昭師の持つ天台僧としての資格「権律師」に対して、何ら御書等では触れていませんが、これは日昭師の立場を慮っての事かもしれません。
日昭師が日蓮の弟子となった翌年の建長六年には、日昭師の妹の夫で義弟にあたる、平賀次郎有国の子供であった日朗師が弟子となりました。おそらく血縁つながりで日昭師の紹介という事もあったのでしょう。
また小湊から鎌倉までの道中で、下総の富木氏を尋ね弘教を行い、鎌倉に入った後に建長年間には四条金吾が入信するなど、日蓮はこの間、地道に弘教を行い教団としての基礎を形作っていったのではないでしょうか。
日蓮が鎌倉に入ったのは32歳頃でしたが、そこから二年~三年の間は、この様な弘教拡大と共に、幾編かの御書を執筆するなど、足場固めに専念していたと思いますが、日蓮が35歳の時、「正嘉大地震」が鎌倉の町を襲います。
【参考文献】
訂訛日蓮聖人伝 倉沢啓樹著
日蓮伝再考 山中講一郎著