創価学会では選挙活動を日蓮の立正安国論に重ね「国家諌暁の戦い」とか「立正安国の戦い」なんて事を言いますが、そももそ立正安国論に纏わる出来事、またそれに対して日蓮がどの様に感じていたのか、細かく理解はしていません。これを理解するためには歴史的な背景をしっかりと理解する必要があると私は思うのです。
安易に言葉を用いるのは、あまりよくない事ですね。
◆正嘉の大地震
日蓮が鎌倉に住んでから四年後、35歳の時に鎌倉は「正嘉の大地震」に見舞われます。
この自身は正嘉元年8月29日に関東地方南部を襲った大地震です。震源は相模湾と言われており、マグニチュード7.0~7.5程のものであったと考えられています。鎌倉幕府の歴史書である「吾妻鏡」によると、神社仏閣の倒壊、山崩れ、家屋の倒壊などが相次ぎ、地割れから水が噴き出す現象や、青い炎が地面から立ち上がる様子も記録されています。また余震も発生し、関東地方全域に影響を及ぼしました。
一般的に日蓮が「立正安国論」を書き著す契機となったのが、この正嘉の大地震と言われていますが、調べてみると当時の鎌倉や日本は、それ以前にも様々な災難などに見舞われていた様です。この辺りはあまり吾妻鏡には記録されていませんが、日蓮の御書にを見てみると、その辺りについて記載されていました。
災難退治抄には以下の記述があります。
「所謂自建長八年八月至正元二年二月」とありますが、これは建長八年(1258年)から正元二年(1260年)までの二年間に、様々な災難があったという事を指し示していますが、記録を見て確認できる事には「建長の大飢饉」がありました。これは建長年間に発生した大飢饉で、明確な記録には残っていませんが、全国的に農作物が不作となっており、そこでは多くの餓死者が出たと言われています。またそれ以前、これは日蓮がまだ清澄寺の上る頃ですが、寛喜の大飢饉もあり、ここでも全国的に多くの餓死者が出たと言われています。
鎌倉時代は現代とは異なり、物流のシステムが強固でもなく、通信を含めた社会インフラについても現代とは比較にならないほど脆弱なものでした。その事から一旦、大飢饉が起こるとその復旧には今とは比較にならない程の年月を必要とします。現代でこそ、大災害が発生しても数年内には復旧する事も出来ますが、当時、一旦大飢饉が起きたのであれば、恐らくその復旧には十年単位の時間はかかったのではないでしょうか。
また飢饉が起きるという事は異常気象もこの時代には頻発していた事も容易に想像が付く事で、この日蓮が生きた時代では、干ばつ、長雨、暴風、冷害など様々な事もあったと思われます。また飢饉となれば、そこには疫病も蔓延しますし、当然、食料が欠乏する事態となれば、社会の治安も悪化していきます。
幕府は弘長元年(1261年)に「関東新制条々」を発布しましたが、そこには「病者、孤子等、死屍・牛馬骨肉等を路辺に棄てることを禁ずる」という事が書かれていました。これは幕府がこの様に公布しないと社会の中が収集が付かない事態が起きていた事を意味していますので、まさに当時の世の中は、今からは想像できない惨状があったのではないでしょうか。
また正嘉の大地震の後には正嘉の大飢饉と言われる飢饉も起きています。これはそれまでの災難において、すでに大きな被害を受けている社会にとって、正嘉の大地震は痛恨の一撃であった事を顕しているのです。
日蓮は鎌倉に入り、弘教の取り組みを始めていましたが、その日蓮の眼の前にあった当時の鎌倉という都市は、どの様な状態だったのでしょうか。それはけして安穏な社会ではなく、人々は立て続けに続く災難の中で、何とか必死に生き抜いているという社会だったのではありませんか。私はその様に思うのです。
◆駿河岩本実相寺で一切経を閲覧する
鎌倉に入り五年後の正嘉二年。恐らく正嘉の大地震の傷跡も癒えぬ世の中でしたが、日蓮は駿河の岩本実相寺へ行き、一切経の閲覧に入ります。
恐らく日蓮は、仏教僧としてこの鎌倉の中から世の中を見た時、これは何が原因でこの社会の惨状になってしまっているのか、解決策はないのかという事を思索し、その確証を得るために一切経典の閲覧に入ったのではないでしょうか。
この岩本実相寺で、日蓮は幼少の日興師(当時は伯耆坊と呼ばれていた)とで出会い、日興師は日蓮の下に弟子入りする事になりました。
【参考】
現代宗教研究(16) 「立正安国論」考察の一視点・飢餓 岡元練城著