自燈明・法燈明のつづり

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日蓮が住み始めた頃の鎌倉仏教界の状況について

 

正嘉の大地震のあと、駿河の岩本実相寺で一切経を閲覧し、その後の流れとしては立正安国論に行くと、ちょっと日蓮を齧った人であれば思う事でしょう。現に創価学会の教学試験で学ぶ日蓮の歴史はその程度でした。

当時の鎌倉もそうですが、全国的に見ると飢饉や疫病、また社会の治安もかなり悪化していて、今からでは想像も出来ない大変な時期であったと思います。そんな中で、当時の鎌倉仏教界はどの様な状態であったのか、ここで少し考えてみたいと思います。

◆鎌倉について

今でこそ鎌倉は小洒落た街並みで、住んでいる人たちもそれなりにハイソな人たちが住んでいるいる町となっています。鎌倉駅の東口を降りれば、左手には小町通りがあって、若者たちや外国人観光客で休日は賑わっています。そして少し離れたところへ行けば、趣のある神社仏閣もあり、町の雰囲気も大変落ち着ています。

しかし今から七百年以上前の鎌倉はどうだったのでしょうか。

鎌倉は奈良時代には相模国鎌倉郡の郡衛所在地になり、古代から地域の中心都市でした。771年まではこの鎌倉を東海道が経由し上総国へ向かってもいました。上総方面には有力な豪族が昔から住んでおり、今でも多くの古墳があります。

平安時代には桓武平氏当主の平直方が居館を構えていましたが、直方の娘と河内源氏源頼義との婚姻を契機に鎌倉を譲り渡した事で、河内源氏ゆかりの地となりました。その後、治承・寿永の乱平清盛を中心とする平家に対する内乱)の時に、源頼朝が鎌倉に入り、大蔵御所を構えて坂東政治の中心となったのです。

その後、文治の勅許に基づき文治元年(1185年)鎌倉幕府が全国に守護・地頭を設置が認められ、建久三年(1192年)に源頼朝征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府の礎が形作られたと言われています。

東武者が中心となっている鎌倉幕府は、元々が軍事拠点の色合いが強い場所でしたが、この鎌倉が日本の中心になった事で、文化的にも鎌倉を京に劣らない都にしようと、幕府は京より多くの文人を招聘し、仏教についても京の有力寺院から僧侶を招聘するなど文化政策に力を入れ始めました。

仏教は平安時代までは貴族中心のものであり、僧侶は原則、官僧(国が認めた僧侶)が中心であり、国が認めずに出家した僧は私得僧と呼ばれ差別されていました。また基本的に僧侶が庶民に仏教を布教する事は禁じられていました。しかし平安時代末期に法然源空法然上人)が念仏宗を庶民に広げた事を皮切りにして、鎌倉時代には武士や庶民にも広がる宗派が登場しました。これを鎌倉仏教と呼んでいます。そして鎌倉幕府文化政策の一環として、この鎌倉仏教を積極的に支援もしていました。

この政策から鎌倉には多くの寺院が建立されていきました。それは飢饉や疫病など、社会の中で多くの災難が発生している時期にも関わらず推進されていきました。この事は鎌倉の古刹と言われる寺院の建立時期を見ても解ります。日蓮が鎌倉に入る前後を見ても、以下の寺院が建立されています。

・浄土宗 延命寺(1250年)
臨済宗 円応寺(1250年)
真言宗 浄明寺(1251年)
臨済宗 海蔵寺(1253年)
臨済宗 建長寺(1253年)
真言律宗 極楽寺(1259年)

また鎌倉の大仏と言われる高徳院の大仏建立も建長四年(1252年)に始まっています。

これら寺院建立などは、幕府が資金を出して行われるもので、現在で言えば国家の行う公共事業に当たります。恐らく当時の鎌倉には寺院建立のための大工や仏師、また大仏建立に携わる人たちも多く鎌倉には集まっていたと思われます。

公共事業となれば現在同様、そこにはかならず「利権」というものが発生します。この利権に鎌倉仏教界は深く関わっていた様です。

この幕府主導による文化政策として、この様に仏教が重用される陰で、鎌倉の町やその周辺では飢饉や疫病、また度重なる内乱により、人々の生活は疲弊をしていたものと思われます。人々が悲惨な生活の中、苦しんでいる時に、幕府主導の公共事業で仏教僧がその利権に群がって動いている。自身を「旃陀羅が子」と述べていた日蓮が、こういった当時の幕府の状況についてどの様に感じていたのか、そこは推して知るべきだと思います。

◆鎌倉仏教界について

京から招聘された僧侶は鎌倉に多くいましたが、幕府としては武士の価値観に深く結びついていたのは臨済宗などの禅宗でした。また幕府としては比叡山延暦寺の影響力を抑え込みたいという思惑もあったようで、この禅宗に対しての支援には力を入れていました。

では鎌倉仏教界でも臨済宗などの禅宗が力を持っていたかと言えば、そこは少し異なるようです。この事については、後に日蓮と敵対関係になる極楽寺の忍性房良寛の事を少し見てみると判ります。

忍性房良寛は、真言律宗の僧侶で、師匠の叡尊も同じく鎌倉仏教を代表とする人物でした。良観は京や奈良等を中心に活動をしてましたが、建長四年(1252年)に関東に赴き、御家人の八田朝家の知行地である常総三村寺を拠点に舟運を利用しながら布教活動を行い、鎌倉進出の地固めを行っていました。

正元元年(1259年)、極楽寺入道重時(前連署北条重時)の招聘に応じて鎌倉の極楽寺に移り、その後、北条時頼北条実時からの信頼を得て、重時が死んだときにはその葬儀を中心になって執り行いました。

弘長二年(1262年)には北条時頼の要請で、鎌倉に師匠の叡尊が東下してきましたが、この時、叡尊は病気がちであった事から叡尊に代わり良観が受戒などを執り行いました。この時、鎌倉の念仏者(浄土宗)の指導者だった念空道教叡尊に帰依したことで、良観は鎌倉の律僧や念仏僧の中心者になったのです。

これ以降、良観が鎌倉仏教界の中心的な存在になったと言われています。ここで興味深いのは、鎌倉の念仏者の支持を得た事で、良観が中心者となったという事で、これは鎌倉でも念仏者はそれなりに力を有していた事を表しているのです。

日蓮立正安国論法然念仏宗を責める内容となっていったのも、実はこういった鎌倉仏教界の構造的な事があっての事かもしれません。

次回から立正安国論について触れていきたいと思います。

 

【参考文献】
日蓮宗妙覚寺 ホームページ 教箋ページ