ここから立正安国論について書いていきます。
立正安国論とは今では国宝となっているものですが、これは日蓮が時の幕府に対して諌暁をしたものと言われています。日蓮の一生とは立正安国論に始まり、立正安国論に終わると言われており、亡くなる際、池上邸で最後に講義したのも立正安国論であったと言われています。
日蓮信徒の中では、世情が悪化し社会が混乱してくると、この立正安国論を引用し、時の宗教や政府の政策の怠りを指摘し、日蓮の教えに帰服しなければ国が滅ぶという事を語る人が多くいました。またその様な主張をする人が日蓮信徒の中に多く居た事から、一般的に日蓮は自分の主張を用いない限り、国が滅ぶという事を言っているのは極めて独善的であり、排他的な人物だと言う人も居ます。
またこの立正安国論の中では、この先に起きた鎌倉幕府の二月騒動や、文永・弘安の役という、蒙古からの襲来を指摘していた事が現実化した事で、この安国論を「予言の書」の様に捉え、あたかも日蓮は未来を予言した不可思議な僧と捉える人も多くいます。
創価学会に於いてはこの立正安国論の「立正安国」という四文字を切り抜き、自分達が選挙の度に公明党という政党(これは創価学会の政治部門ですが)を支援する事が、日蓮が立正安国論で主張していた本義に通じると会員に教え、会員も自分達が票集めに奔走する事が、日蓮の立正安国論を幕府に上呈した事(国主諌暁)に通じると考えていたりするのです。
では日蓮が立正安国論を著して、危険を冒してまで時の幕府に上呈し、結果、一生涯を迫害の中に身を投じたのは一体どの様な思いであったのか。
私は学も無くつたない知識しか持ち合わせていないのですが、創価学会の活動を止めた時に、この事は大きな疑問でした。そこから数回、この立正安国論と向き合ってきましたが、そこで見えてきた事は、日蓮は何も特別な能力を持つ不思議な僧でも無ければ、予言者でもなく、ましてや立正安国論は鎌倉時代には、それなりに説得力を持つ内容でありますが、それが即ち現代に即通じるという内容でもないのではないかという事でした。ましてや創価学会が主張しているこの立正安国論で行った国主諌暁は、現代における選挙だと解釈は、あまりにも愚の骨頂とも言うべき事でした。
この立正安国論に書かれている日蓮の主張は、その当時では間違っていないと思いますが、だからと言って現代にこの立正安国論に書かれている文言を取り出して、それを現代の社会に主張した処で、結果としてそれは日蓮の想いとは異なる事になってしまうのではないかと思うのです。
私はこの立正安国論を読み込む際に、創価学会教学部の編纂した講義録は一切読むことをしていません。ましてや日蓮正宗の講義についても参考とはしませんでした。それは講義という名目で、それぞれの教団が内容に「我田引水」の様に恣意的な曲解を加えている事が考えられるので、それは一切排して読んでみる事にしました。
前置きはこの位にして、立正安国論の事について書き進めたいと思います。
◆立正安国論に向けた動き
日蓮が立正安国論を著す事となった時代について振り返って見ます。浄土真宗の親鸞は、正嘉三年頃、これは日蓮が駿河実相寺で一切経を閲覧した時期に近いのですが、「正蔵末法和讃」「一念多念文意」という書を著していました。そこでは正嘉以来、地震や水害、また諸国には飢饉や疫病がはびこり、死者と難民が溢れている事が書かれていました。またこの年の六月には疾風や暴風、洪水等が起きて川辺の人家は殆どが流出し、山崩れが起きて多くの人が圧死した様が書かれています。またこの当時、火葬は一部の上流階級のみと限られており、多くの死体は特定の場所に運び込み、風葬とされていたので、腐臭などが漂い、二次被害によって健康を害する人も発生していた様です。
駿河実相寺で一切経を閲覧し、この災難の現況に対する思索を日蓮は行っていましたが、その事については「安国論御勘由来」に以下の様に記しています。
「正嘉元年八月二十三日戌時、前代に超えたる大地震、同二年八月一日大風、同三年大飢饉、正元元年大疫病、同二年四季に亙って大疫やまず。万民既に大半に超えて死を招き了ぬ。」
この当時、幕府や寺社もこういった悲惨な社会の状況を放置していた訳ではありません。しかしこの災難は増大する事はあっても、それら対策の効験は一切無かったのです。
日蓮は実相寺の閲覧を終えて七月には鎌倉に戻ってきていましたが、この時に武蔵公御房に手紙を出しています。これは「武蔵殿御消息」という短い手紙が御書にある事から判ります。この武蔵房とは鎌倉に在住していた天台宗の僧侶と言われていますが、この事から日蓮はこの時、天台宗僧として活動していた事が判ります。ここで日蓮は武蔵房に「摂大乗論」三巻などの典籍の供覧していた事もうかがえます。
またこの立正安国論の写本が幾つか存在しますが、その中で日興師による写本は、現在、大石寺と三島の玉沢妙法華寺に所蔵されています。この内、妙法華寺に所蔵されているものには大題号の下に「天台沙門日蓮勘之」と書かれており、先の武蔵公御坊の御書と考え合わせると、立正安国論を上呈した時、日蓮は天台沙門(天台宗僧)という立場から行った事が判ります。
よく日蓮の独自の教説を展開したのが、立正安国論だと言われていますが、この事を考えてみると、日蓮の主張とは天台沙門の立場から行った事であり、独自の教説(法門)を展開したというのは間違いだと言えるのではないでしょうか。
つまり独りよがりの主張では無かったという事が、ここから推測できると私は考えています。
また立正安国論の二年ほど前に「守護国家論」を日蓮はまとめています。そこには一切経を閲覧した日蓮の基礎となる当時の思想が展開されていて、特に法然の「選択集」に対する批判を中心に据えていますが、ここではこの守護国家論については割愛します。
◆最明寺入道時頼に上呈
さて、この立正安国論の対告衆(与え先)は最明寺入道時頼(北条時頼)です。
昔に制作された日蓮の映画などでは、この北条時頼はとても暴君の様に描かれた事もありましたが、歴史をひも解いてみると、歴代の執権職にいた人物の中でも、この北条時頼は名君といわれた人物でした。
時頼が鎌倉幕府の第五代の執権として在任した期間は寛元四年(1246年)から建長八年(1256年)の十年間でした。日蓮が立正安国論を上呈した時には、出家して最明寺入道と名乗っていましたが、幕府の実権はしっかりと時頼が握っていたと考えられています。
鎌倉幕府とは御家人の集まった武家集団であり、執権と言っても常に微妙なバランスの上になりたつ存在でした。その中で得宗家の影響力を強くし、宮騒動(前将軍の藤原頼経を京に追放した事)で反北条勢力を一掃し、宝治合戦では有力御家人の三浦氏を滅ぼし権力の強化に努めました。これだけを見ると非常に強権的にも見えますが、在任中には農民を保護し、御家人による不当な搾取を抑制したり、引付衆を設置して裁判制度を整備するなど、人々に配慮した政治も行っていたのです。
日蓮はこの最明寺入道時頼の得宗被官(身内人、幕府の高官)である宿屋左衛門入道最信を取次として立正安国論を上呈しましたが、宿屋入道が日蓮に帰依するのは晩年でした。
立正安国論の講義などでは、この最明寺入道時頼への上呈に関する流れを詳細に説明する事はありません。人によってはいとも容易く上呈出来た様に考えたりもしますが、冷静に当時の時代や社会を考えてみると、一介の僧侶が幕府の実力者に対して、意見書を提出するのは、そう簡単な事では無かった事が判ります。
この時、まず日蓮が比叡山延暦寺で阿闍梨号を取得していた事は、大いに役立ったと思います。もし日蓮が一介の私得僧程度であれば、当然、門前払いされ立正安国論は時頼の手元に届く事は無かったでしょう。しかし阿闍梨号を取得しただけでは、時頼に安国論を上呈する事は叶わなかったと思います。宿屋入道にしても、日蓮に帰依するのは晩年であり、この時にはまだ日蓮に帰依をしていません。
私はここに実は日昭師の人脈も関係したのでは無いかと思うのです。
日昭師は左大臣の藤原兼経の猶子ですが、その関係上の妹で近衛幸子がいました。この幸子が日蓮が立正安国論を上呈する年に、北条時頼の猶子として鎌倉に入っていました。その後、幸子は将軍の宗尊の正室となっているのです。恐らくこの日昭師の人脈も、日蓮が時頼に立正安国論を上呈するのに助けになった事が考えられます。
この様な経緯もあり、宿屋入道を仲介として立正安国論は、最明寺入道時頼の手元に届けられたのではないでしょうか。