◆立正安国論の題号
日蓮が上呈した立正安国論という題号には、どの様な意義を込めていたのでしょうか。これは「正を立て国を安んじる論」という事ですが、この事について日蓮は立正安国論の中で以下の様に述べています。
「倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す」
ここでは経文を注意深く読んでいくと、この世の人々が正しい事に背き、悪に帰依している事が判ったと言っています。つまり「立正」の「正」とは「経典にある事」であり、日蓮が見た当時の社会の様相はこの経典に背いているという事なのでしょう。
前の記事にも書きましたが、日蓮は「自分の教えを信じないと国が滅ぶと言った独善的な人物だ」という評価もありますが、それは全く異なる事がここから見えてきます。
まず日蓮のこの時の立ち位置は「天台沙門」です。天台宗の僧侶がこの世の中は、経典に説かれている事に背いてしまっていると述べ、それを正す事を述べたのです。また日蓮は法華経の肝心である南無妙法蓮華経こそが一番大事な事と考えていましたが、この立正安国論では、法華経や御題目の宣揚は行っていないのです。
◆立正安国論の根底にある思想
私は若い頃から、この立正安国論について一つの疑問がありました。それはこの中で引用されている経典が、大集経、金光明経、仁王経、法華経、涅槃経を多く引用している事でした。これらのうち、大集経は主に末法思想に関わる経典なので、そこは何となく引用した事は理解できました。また法華経や涅槃経も重要な経典であるので引用はされてもおかしくありません。では仁王経や金明光経とは一体なんの経典だったのか。
これらを良く調べていくと、仁王経、金明光経と法華経の三部の経典を合わせて、「護国三部経」として、日本に仏教が渡来してきた時から尊重されてきた経典だと言う事が解りました。
仏教が日本に公式に伝播してきたのは4世紀後半頃と言われています。当時、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅が互いに連携したり争ったりしていました。その中で百済が新羅から圧迫を受け、その援軍を時の大和朝廷に要求してきた時、百済からの「貢物」として日本に公式に仏教が伝播してきたと言われています。
そして日本の中でこの仏教は、朝廷等を護り、国を安定させるための教えとして定着し、その仏教を学び、法を修める僧侶は全て官僧(公務員)としたのです。その事から出家は国家の資格として管理し、勝手に出家する事は私得僧として禁止され、明確に差別していました。それ以降、平安時代末期まで官僧は朝廷や公家の為に法会を執り行う事を主な役割とし、朝廷や公家以外に説法する事を禁じたのも、そういった事からだと思います。つまり仏教とは「鎮護国家の教え」だったのです。
そこから考えると、立正安国論でこの「護国三部経」を中心として展開しているという事は、本来、国家を護るべき仏教が実態としては何ら国を護る効力を発揮していない事を指摘する為にあえてこれら経典を引用する事で、その原因は、幕府が経典を正しく理解しておらず、間違えてしまっている事から、本来であれば国家を護る仏教がその効験を発揮していないという事知らしめたいという、そういった日蓮の想いがあったのではないでしょうか。
また当時の鎌倉幕府は、文化政策の一環として仏教を重用し、一部では比叡山延暦寺の影響力をそぎ落としたいという考えから、臨済宗などを重用するという事も行っていました。しかしその比叡山延暦寺の天台宗僧の日蓮という立場から、その文化政策の間違いに対する痛烈な批判として、幕府の高官等からは捉えられたのかもしれません。
◆護国三部経の解釈の転換
またこの立正安国論で興味深いと感じた事は、仁王経や金明光経にはそれぞれに国を護る法力があると当時は理解されていました。だから官僧はこれら経典を読誦し、書写し、災害などが発生した時、必要であればこの経典を中心とした法会を行うなどをしてきました。
しかし日蓮は、立正安国論の中で仁王経や金光明経の中にある「此の経」という箇所を「法華経」として解釈し、中心にあるのはあくまでも法華経であって、他の経典は全てこの法華経の解説書と位置づけで引用し、当時の社会の中に起きている災害について説明をしています。つまり護国三部経として尊重すべきは法華経であるという事を、暗に示しているのです。この事は立正安国論の中では、文言としてそれを明かに指摘する箇所はありませんが、全体の内容としてとして法華経を中心とした仏教を示す内容となっています。
それまでそれぞれの経典に法力があると解釈されていたものが、実は法華経を中心とした大乗仏教の構成の上から、仁王経や金光明経はその解説書として取り扱った事も、考えてみれば当時ではとても異例な事であったと思われます。何故ならそれまで災難などがあった時には、それぞれの経典を中心にして法会を修法していたからです。これは「護国三部経」について大きなパラダイムシフトであったのではないでしょうか。