ここから立正安国論に書かれている内容について書いていきます。
当時、僧侶は今でいう学者的な立場でもありました。通常は僧侶の著す論というのは、格式のある論文による構成になるのですが、立正安国論は主人と客人による対話という形式を用いて書かれています。ましてや時の最高権力者である最明寺入道に上呈するものであれば、一般的には格式ある論文形式であるはずです。
しかし立正安国論は、主人と客人との対話形式を用いたのです。そこには恐らく、時頼に対してこの安国論の本旨を理解して欲しいという考えがあったのではないでしょうか。形式よりも内実を大事に考えた。そういう事かもしれません。
◆安国論の全体の構成
この主人と客人との対話は「十問九答(客人の十の問いに対して主人が九つ回答する)」となっています。要約すると以下のものとなります。
- 客人問1:近年の世の中を嘆き、宗教や政治の働きが意味なさない事を嘆き悲しむ
- 主人答1:客人の嘆きを聞き、世が正に背き悪に帰依している事を明かす
- 客人問2:主人の論に驚き、その証拠を求める
- 主人答2:金光明経、大集経、仁王経、薬師経によりその原因を示す
- 客人問3:少し感情的になり仏教が栄えているのに、何故正に背き悪に帰依すると言うか問う
- 主人答3:主人が諭しながら悪僧が多く、王臣が邪正を弁えていない事を示す
- 客人問4:より感情的になり、誰が悪僧なのかを問う
- 主人答4:浄土宗の法然こそ悪僧であり、選択集こそが根源である事を指摘する
- 客人問5:客人が憤り法然こそ聖人であろ事を述べ、席を立って帰ろうとする
- 主人答5:笑みをたたえながら、その理由について明かす
- 客人問6:少し落ち着き、世の中に仏教の指導者もいるのに法然が責められていないことを問う
- 主人答6:法然やその弟子達がご勘気を被っている例を示す
- 客人問7:客が落ち着いて、主人の言葉に納得して、災難を治める術を質問する
- 主人答7:治める術は悪侶を戒め、正法の僧を重んじる事である事を経文を元に示す
- 客人問8:悪侶を誡めるのは経文の様に命断する事なのか、その場合、僧の殺害の罪はどうなのか問う
- 主人答8:命断とは布施を止める事だと述べる
- 客人問9:襟を正して悪侶を誡めた後、国家が平安になったら、正法の僧を尊重する事を誓う
- 主人答9:経文を引き他国侵逼難と自界叛逆難の二難が来る事を明かし、直ぐ正法に帰依する事を進める
- 客人問10:自分だけでなく他の人にも勧める事を誓う
この全体構成を改めてみると、立正安国論は主人と客人との対話形式でありながら、自身が主張したい内容を伝える為、よく考えられた構成だと思います。ここで少し各問と答えの内容を見て、その事を考えてみます。
・1つ目の問いと答え
「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭飢饉疫癘遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し、」
これは名文とも言われる文書ですが、正嘉の大地震から立正安国論の上呈の間、日蓮が見てきた社会の現状をありのままに書いています。この名文の後に、当時の仏教を中心とした宗教や、幕府がどの様な対処を行ったのか、代表的な事を上げながら「然りと雖も唯肝胆を摧くのみにして弥飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」と、それらは全て何も効験を著していない事を指摘しています。
ここにある言葉は、日蓮の言葉でもありますが、恐らく最明寺入道時頼の想いとも重なる部分だったのでは無いでしょうか。前の記事でも紹介しましたが、時頼はけして暴君や専制君主的な指導者ではなく、人の声を聴く指導者でもあった様です。そうであればここは同じ思いであったと思うのです。
しかしここでは主人としての回答として「世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず」と、日蓮は一切経を閲覧し、思索の中で得た結論として、当時の社会が仏教の経典にある事とは異なる、間違えた帰依のしかたをしている事から、国から諸天善神が去り聖人も去ってしまった事が原因だと指摘するのです。
・2つ目の問いと答え
当然、主人が一切経をひも解き思索する中で、その様な結論を得たとすれば、それにどの様な証拠があるのか、そこは聞きたくなる処でしょう。客人の問いは「神聖去り辞し災難並び起るとは何れの経に出でたるや其の証拠を聞かん」とありますが、当然、これは結論を読んだ時頼もそれを聞きたくなるでしょう。
それに対して主人の答えとして、大集経、仁王経、金光明経、薬師経、法華経、涅槃経などを引用し、仏教があるとは言っても、それを正しく理解し尊重しなければ、その国には三災七難が降りかかり、社会は混乱し疲弊をする事を順次明かしていきます。そしてこの姿がまさに当時の時代の情景に合致する事を明かします。
・3つ目の問いと答え
この主人の説明を聞いた客人は、少し感情的になって更に問います。「誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂んや若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。」。つまり誰が仏教を尊重していないと言うのか、その言葉の訳を聞きたいという事です。
ここまで読んだ最明寺入道時頼は、この部分をどの様に思ったのでしょうか。当時、幕府としても文化政策の一環として多くの僧を京から招聘、仏教各宗派を尊重し、多くの寺院も寄進してきました。それに対して、その行って来た事に、実は間違いがあると指摘をされたばかりか、それが原因で世の中に様々な難が起きていると言われた時には、何をこの僧は言っているのか訝しく感じたのかもしれません。
それに対して主人の回答として「但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し王臣は不覚にして邪正を弁ずること無し」とバッサリ切り捨てるのです。要は貴方達が尊重してきた僧侶は悪僧ばかりで役に立っておらず、ここでは「王臣」と言っていますが、幕府の重臣質の誰もが仏教の何たるかを知らないでは無いかというのです。
鎌倉幕府は坂東武者が中心の組織で、簡単に言えば当時「都知らずの荒くれ田舎武士の集団」と言われていた時代です。それでも承久の乱以降、鎌倉を京に負けない文化都市にしていこうと、文化政策を行い、坂東武者であっても試行錯誤で取り組んできたにも関わらず、その行いを全否定する言葉を、ここで主人は投げかけたのです。
この言葉は、もしかしたら時頼自身に突き刺さる言葉だったのかもしれません。
・4つ目の問いと答え
ここで客人はより感情的になります。「何ぞ妄言を吐いて強ちに誹謗を成し誰人を以て悪比丘と謂うや委細に聞かんと欲す。」、これは何を嘘を並び立てるのか、一体誰が悪僧だというのか。
これに対して主人は答えます。「後鳥羽院の御宇に法然と云うもの有り選択集を作る即ち一代の聖教を破し�く十方の衆生を迷わす」と、念仏宗の法然こそが、悪僧だと指摘するのです。では何故、法然が悪僧であったのか。ここでは選択集の中で道綽禅師(中国唐代の念仏僧)の言葉を引用し、そこでは菩薩が成仏を求める道に二つあると言い、一つは難行道でこれは浄土経以外のもの、そしてもう一つは易行道で浄土経であると分類しています。そして浄土へ往生したいのであれば難行道を捨てて易行道に付くべきと書かれている事を説明しました。また善導和尚(中国唐代の念仏僧)は正行と雑行の二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰依すべきという文がありますが、そこでは念仏の経典や阿弥陀仏以外への礼拝形を雑行と呼び、阿弥陀仏関連の経典と念仏信仰を正行と分けて、雑行では一人も成仏できないが、正行ではすべての人が成仏できると書かれている事を説明しました。
つまり法然の選択集の教えでは念仏のみが成仏できる教えあって、それ以外の仏教の教えは成仏できないと言っているのです。これによって多くの人々が仏教の教えに迷い、仏教と言えば念仏の教え、仏は阿弥陀仏だけと思わせてしまったと言うのです。
その結果、かつて伝教・義真・慈覚・智証と言った先人が、海を渡り日本に伝えた仏教は廃れてしまい、念仏宗のみ広がった結果として、諸天善人が国を捨て去りこの様に荒廃した社会になった事を示し、それ等はこの法然の選択集による事では無いかと断言するのです。
「彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。」と言った「一凶」とは法然の念仏宗の事だったのです。
(続きます)