
ここまで2例の臨死体験について紹介をしてきました。
前の記事にも書きましたが、医療の進歩と共に報告される臨死体験の数は増加しており、近年では臨死体験学(NDE)として研究が進んでいます。とはいえ、この学問はまだ日も浅い事もあり、この臨死体験について解明されていない事は山ほどあります。
◆文化や宗教観による差異
私はこの臨死体験について、立花隆氏による「臨死体験」や、カールベッカー氏の「死の体験」など、関連する書籍を過去に読んだ事がありますが、そこでは面白い傾向が指摘されてきました。
それは臨死体験の内容の多くは、被経験者の文化や宗教、そして民族的な背景によってその内容が異なるという事です。
日本人の臨死体験には、だいたい「三途の川」というのが出てきますが、これは恐らく日本人の持つ死生観に関係する事だと思います。先の紹介した木内鶴彦氏の体験にも三途の川が出てきましたし、日本人の多くの臨死体験者は川の大小や深浅の差はありますが、ほぼ三途の川というのが話に出てきたりします。
一方、欧米では「暗く長いトンネル」から始まり「光の存在」という流れの臨死体験が多くあって、これはエベン・アレクサンダー氏の体験も、この類の内容ですし、西欧の臨死体験ではこういった類の話が殆どで、そこに三途の川があったという話はあまりありません。
ちなみにギリシャでは「三途の川」とは呼んでいませんが、こちらでもいわゆる「生と死の境目」について川が出てくる事があるようです。
これらを考えてみると、臨死体験の多くは「死に臨んだ体験」であって、恐らく完全に死亡した人の体験では無いと私は思うのです。文化や宗教、また民族性というのは、やはり生まれ出てから後天的に付与されるものだと私は思うので、その後天的要素に左右される経験をするという事は、「臨死」はあくまでも死に際の経験であり、仏教で言えば「死有」の入り口で経験する事であり、「死後の体験」とは切り離して考えるべきではないでしょうか。もし臨死体験がこういった後天性的要素に左右されないのであれば、また違う事も考えられると思うのです。
◆死について
こうなってくると「死」とは一体どの様な状況を指すのでしょうか。一般的に死とは「生への不可逆点(生き返る事が出来ない時点)」と言われています。ただ今の人類社会において死を判定できるのは医師だけです。では医師はどの様に死を判断しているのか、少し振り返って見ます。
この話は立花隆氏の「脳死」という著書に紹介されていますので、要をまとめて説明すると、いま医学界では死を「全脳死」と「脳幹死」の2つあるそうです。
「全脳死」とは言葉通りで、脳全体の機能が停止した事を指します。脳波は完全にフラットになり、瞳孔は開きっぱなしで反応せず、自発呼吸も止まった状態になります。一方の「脳幹死」は脳幹部分の機能が停止した状態で、自発呼吸が停止していますが、小脳や大脳の機能の一部が残った状況を指し、放置すればそのまま全脳死へと移行していきます。
過去に於いて、人類社会は全脳死を死として判断して来ましたが、人工呼吸器が開発された事でこの状況は変わりました。それまでは脳幹死すると自発呼吸が止まる事から、まもなく全てが全脳死に移行しましたが、人工呼吸器により脳幹が機能停止しても呼吸を補助出来る事から、すぐに全脳死に移行しない例が出てきたのです。
またその後、臓器移植が進んできた事から、それを進める為にも20世紀後半に各国ではこの「死の判定」について法制化する必要が出てきた事もあり、この全脳死や脳幹死という議論が活発化しました。
ちなみに現在の日本に於いては全脳死を死として判断していますが、欧米の一部では脳幹死を死として判断している国や地域もあるようです。
◆臨死体験から見える事
私たちはこの死について、脳の機能が停止した事を以って死と思い、脳が死んだのであれば意識も消失するだろうと多くの人は思っています。確かに脳の機能が停止すれば意識を消失しますし、私の場合でも、以前に病院で手術を受けた際、全身麻酔を施された時には数時間の間、意識も無くなってしまい、瞬間的に数時間が過ぎてしまっているという事を経験しています。しかし果たして死というものは、それと同じ事なのでしょうか。
エベン・アレクサンダー氏や木内鶴彦氏に代表される「臨死体験」では、この脳機能が停止した事を、医師が確認(エベン氏は自身でも診断した結果、その様な判断をした)したにも関わらず、そこでは活発な精神活動が行われていた事を意味します。
では精神活動の源とは一体どこにあるのでしょうか?
いま多くの人が考えている「心とは脳内の化学反応の結果」とするのであれば、これほど多くの臨死体験というのは存在しないと思いますし、少なくともエベン氏や木内氏の様な体験は存在しない事になります。しかしこの様な臨死体験の経験者が多くなると、この「心とは脳内の科学反応の結果」という考え方を改めなければならないと思うのです。要は脳機関が全停止したとしても、心の動きというのは、そこで止まる事は無いという事が、これら臨死体験から示された事になるからです。
「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。」
ここでは仏は三界(この現実世界)をあるがままに見ているが、そこでは生死は退いたり、出てくるという事でもなく、そこから考えれば在世とか滅後の者も存在しない。
この部分を読むと、心は産まれたからこの世界に出現したとか、死んだからこの世界から消失したという事ではなく、常に存在しているというのです。
確かに亡くなった人は呼吸も止まり、生体反応も無くなります。当然、外目から見た婆には動かなくなるので、そこで全てが終わっている様にみえるでしょう。しかしその内面、亡くなった人にとっては意識が消滅している訳でもないし、五感の感覚すら生きている時と同様に働いているのです。そこから考えたら、「死」といっても一つの通過点であり、その先も本人の心は活発に活動を続けているという事になります。
そうなると、そもそも「心」とは何か、「私(自我)」とは何か。それは単に肉体として機能しているから、そこに存在しているだけでは無いという事であり、そこをもう少し思索を進めていかなければならないと私は思います。