さて、日蓮の話に戻ります。
前回は立正安国論を最明寺入道時頼(北条時頼)に上呈するまでの事を書きました。日蓮の想いとしては、恐らく最明寺入道に立正安国論を提出すれば、例えば意見を述べる場が持たれるとか、念仏僧との公場対決など何かしら幕府からの動きがあると考えていたと思います。
しかし幕府からは何も動きはありませんでした。立正安国論を上呈したのは、7月18日ですが、8月になっても幕府から一切動きはありません。この事について日蓮は「下山御消息」という御書の中で以下の様に述べています。
「先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ」
◆松葉が谷の法難
ここでは立正安国論を上呈したところ、何も動きすらない。これは国主も用いない様な僧の言葉ならば、何も起きないと思っていたところ、念仏者並びに旦那などが夜中に日蓮の小庵の押しかけてきて殺害しようとしてきたとあります。
この時期は8月27日とされていますが、日蓮の御書にも襲撃された日付は明確に示されたものは無く、様々な研究などの中でこの日に設定されている様です。
この松葉が谷の法難では、日蓮の小庵が焼き討ちされましたが、その前に日蓮は山の猿に誘導され、名越の山を越えて鎌倉外に逃げた事から、襲撃から何とか逃れる事が出来たという伝説が、日蓮宗では語られています。
この件について山中講一郎氏は「日蓮伝再考」の中で否定していますが、私もその意見に同意しています。当時の鎌倉は幕府の中心地でもあり、家屋や建物は木造となっています。もし火をつけた場合、それが周囲に延焼した際には大事になってしまいますので、襲撃の際、火を放った事は考えられないでしょう。また猿が事前に日蓮を逃したというのは伝説以外の何物でも無い事は、誰もがわかります。また鎌倉外に逃げ出したという事については、私も徒歩で以前に逗子から名越を越えて鎌倉まで歩いた事がありますが、鎌倉の山は低いとは言え、意外と険しいので、そこを越えて逃れるという事も難しいのでは無いかと思いました。
山中氏は「隠れるのであれば人の中」と言っていますが、日蓮は僧侶でもあるので、暴徒が襲撃した際、その中にまぎれて逃走するのは困難にも思いますので、もしかしたら小庵から少し離れた場所に隠れていたのではないでしょうか。また逃げるにしても事前に誰かが日蓮に、襲撃が計画されていた事を知らせた事は十分に考えらえますが、そこは明確な資料はありませんので、あくまでも想像の範疇を越えるものではありません。
◆松葉が谷襲撃までの幕府の動き
このあたりの記録も明確に残っていませんので、ここから書く事はあくまでも個人的な想像の範疇の話となります。
日蓮から立正安国論を受け取り、内容を読んだ時頼は、恐らく幕府の重臣にも立正安国論を回覧したのではないでしょうか。そこに書かれていたのは、念仏宗に対する徹底した破折と、自界叛逆難と他国浸逼難の二難でした。
この時、時頼の嫡男である北条時宗は9歳、北条時輔は12歳でした。もしかしたら幕府の中には、この後継争いの火種がこの頃から燻っていた事もあったかもしれませんが、暗にそれを匂わす記述にも感じた人が重臣の中にいたかもしれません。
また他国浸逼難についても、中国大陸の元の動向は既に鎌倉幕府は掌握していたと思いますのが、御家人の動揺も考えられるので、それは内輪に止めていたにも関わらず、それをすっぱ抜かれたという感情を持った重臣も居たかもしれないのです。
そして何より幕府の進めてきた宗教政策が、当時の社会の困窮状況を悪化させていても、何も益していないという指摘は、多くの重臣たちの中に反感を多く抱かせたのかもしれません。
恐らく時頼はこの件について、明確に日蓮に対する姿勢は決めていなかったと思いますが、そういった幕府内の重臣の思惑から、日蓮を夜討ちして襲撃する動きが出て来たのではないでしょうか。そしてその目的は、日蓮を殺害するのではなく、日蓮を含め当時はまだ少数だった信徒も黙らせる事にあったのかもしれません。
◆襲撃した人々
松葉や谷の小庵を襲撃したのは一体誰だったのでしょうか。
実は建長四年から鎌倉大仏の建立作業が鎌倉では行われており、そこには大仏建立の為に多くの仏師や職人が集められていました。そして鎌倉大仏は「阿弥陀如来」です。
もし施工主である幕府の役人から「日蓮という悪僧が念仏宗を止めろと言ってきている。もしそうなればこの事業(大仏建立)も止められるかもしれない」と言われれば、彼ら仏師や職人に取ってそれは失業を意味します。当時の鎌倉でも飢饉の影響や、正嘉の大地震の影響は残っているので、もし嘱を失ってしまえば彼らとして貧困のどん底へと落ちてしまいます。そうなれば必然的に「悪僧の日蓮は何を言っているんだ!」という事にもなるでしょう。
その事からこの鎌倉大仏建立の関係者が、松葉が谷の小庵に押しかけて来たのかもしれません。
これが松葉や谷の法難だったのではないでしょうか。