自燈明・法燈明のつづり

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前世の記憶を持つ子供達②

チベット仏教では、指導者のダライ・ラマが亡くなった場合、直ぐに転生しているという事から、周囲に僧侶を派遣して、そのダライ・ラマの生まれ変わりを探すといいます。

これはダライ・ラマの人格が輪廻転生の中で、一貫してつながっているという事を前提にした制度だと思います。

ではこの「人格」や「自我」とはどういったものなのか。これについて原始仏教に伝わる一つの対話の中で語られているものがあるので、それについて紹介いたします。

ミリンダ王の問い

これは古代インドとギリシャ文化の邂逅を象徴としたものと言われ、「弥蘭王問経」に収録されている対話です。

ここではギリシャ系インド王のメナンドロス一世と、仏教僧のナーガセーナの哲学的対話が記録されています。

この対話記録の中で「車の譬喩」というものがありますが、これは私達が「車」と呼ぶものの本質がどこにあるかを問う事で、仏教の「無我」という考え方を示したものと言われています。

この対話では、王は「車とは何か?」と尋ねます。ナーガセーナは、車は車輪、軸、車体、その他多くの部品から構成されているにすぎず、どの一部分だけを取り出しても「車」とは言えないと説明します。つまり、車そのものは個々の部品の集合体にすぎず、ある意味では固定した実体や独立した本質が存在しないと説いているのです。もし、どこかの部品が取り替わったとしても、便宜的に「車」と呼び続けるのと同じように、私たちが「自己」と呼ぶものもまた、五蘊(ごうん)のような集合的な側面からなるものであり、固有の実体があるわけではないということを伝えています。

これをもう少し私達に即して捉えてみると、例えば「斎藤単己」とは何かと尋ねられると、私の脳髄を捉えてその本質というのか、心臓を捉えて本質と捉えるのか、その他五臓六腑等の何れかに「斎藤単己」の本質があるのかと言えば、いずれも正しくありません。「斎藤単己」という存在は、脳髄から五臓六腑等、すべての臓器や器官の上になりたっている存在であり、条件がそろって初めて「斎藤単己」となるのです。

つまり私達の「自我」というのは、こういった体にあるすべての器官の調和の上に、「縁起」を以って成り立っているのです。だからこの「縁起」が成り立たなくなった状態、これは病気や事故等で器官の一部や多くが損なわれ、機能しなくなった時点で、「自我」というのは成り立たなくなり、それが死とも言えるのです。

しかしこれは外面的な事であり、それでは「車」というのは全ての部品の縁起の上で成り立っているとは言え、成り立たっていない時には「車」は存在しないのか。つまり今の体に「斎藤単己」は存在していたとしても、その体が機能しなくなった際、「斎藤単己」は存在しないという事でしょうか。

この原始仏教的な思考で言えば、「自我」というのは存在せず、あくまでも縁起の上でそれがあたかも「自我」として存在している様に錯誤しているだけという事になります。

唯識派の九識論

この「自我」、もっと言えば「心」について、仏教の中では唯識派がこの事について思考を積み重ね、詳細に論じてきました。そこでは内面から観じた心について、八識説として説明しています。

・五識
眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(臭覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)の5つの感覚器官に纏わる識(心の働き)を言い、外界を認識する働きです。

・六識
感覚器官からの用法を総合的に処理し、認知し判断する働きです。これを意識と言い、私達が日常生活の中で捉えている意識は、この部分にあたります。

・七識
自己や自我を作りだしている働きで、仏教に於いてこれは錯誤とも言われていますが、心の根源的にある「自我」という意識を作り出していて末那識と呼ばれています。「我執」という執着もこの七識から生まれてくると言われています。

・八識
過去からの記憶や行い、またそれによる業を蓄積する働きで「貯蔵意識」や阿頼耶識とも呼ばれていて、八識説に於いてはこれが「心王(心の根源)」と呼ばれていました。しかし天台宗の開祖である天台大師智顗は、この八識よりも更に一重深い場所に九識(阿摩羅識)を立てて、そこを「九識心王真如の都」と呼び、そちらを心の根源とさだめ、九識論を立てました。

この九識論から見て、「自己」や「自我」とは具体的にどの様なものなんでしょうか。この辺りについて私なりに解釈をしてみました。

恐らく心の自我とは、八識(阿頼耶識)に蓄積された記憶によって、あたかもその存在が他者と独立した存在として錯誤(錯覚)したものが七識(末那識)であり、その働きによって私達が日常の中、自己と他者を区分けして認識していると言う事なのでしょう。要を言えば他人と自分を区別しているのは阿頼耶識に蓄積されている「記憶」だと言う事なのです。では九識とは何かと言えば、それは心の働き全般を起こす存在であり、例えば十界論などで言う境涯という事。また人が瞬間瞬間に起こす心の感情の根源にもこの九識が働いていると思うのです。その関係は以下のものに近しいのではないでしょうか。

末那識(自我)阿頼耶識(過去からの記憶)阿摩羅識(心の根源の存在)

阿頼耶識にある記憶と、阿摩羅識の心の根源的な存在は、それぞれが分離独立した働きではなく、それぞれが相互関係を以って働く事で、自我の性質(人の性格と言ってもいいでしょう)が末那識に反映され、五識により受容した外界の状況と、この末那識に反映された性質を元に、意識(六識)が瞬間瞬間、それを認知して実際の行動や思考が働いている。

ちょっと入り組みややこしい理屈になってしまいますが、それが個々の私達の心なのかもしれません。

ちなみに八識説や九識論に於いて、他者との区別を感じているのは末那識であり、阿頼耶識や阿摩羅識では、自己や他者といった区別は存在しない事となっています。あくまでそれを認識しているのは末那識(七識)なのです。

◆前世の記憶について

話が大きく迂回した感もありますが、ここで表題でもある「前世の記憶を持つ子供達」について思考を向けてみます。ここで前世を語りだした子供達ですが、このドキュメンタリーの中でも、この子供達を過去にこの記憶を持った人格(自我)の生まれ変わりという事で描かれていますが、もしかしたらそれは違うのかもしれません。

確かに外面的に見た場合、その過去世の記憶を明確に語っている事から、その自我はその前世の記憶主の生まれ変わりの様に見えてしまうでしょう。

しかし個人と他者を区分けしているのは、そもそも「心の本質」から見たら錯誤であり、阿頼耶識に蓄積されている記憶というのは、実は「外に漏れだす」という事もあるのではないでしょうか。そして生まれ出る際、他者の「外に漏れだした記憶」を受け取った子供が、生まれ出た後、あたかもその記憶主の様に振る舞い見えてしまう。そして本人も、その記憶によって前世の記憶主の様に錯誤してしまっているのでは無いかと推察するのです。

そういう観点から考えてみると、子供達は他者からの記憶の一部を受け取り生まれてきましたが、それが即、その過去世の記憶主の人格と同じ存在とも言い切れず、そこから考えた時、そもそも遠い過去から一つの独立した自己が存在し、それが生死流転を繰り返してきているという輪廻転生説についても、少し考え方を見直す必要があるのではないでしょうか。