
流罪の地は伊東でしたが、この地は北条得宗家有縁の地であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が流罪された地であり、北条家の身内である伊東氏がこの地を治めていました。
鎌倉市中を引き回された後、由比ガ浜から伊東へと流されましたが、これは松葉が谷の法難とは異なり、完全に「罪人」としての扱いでした。そして罪状は「御成敗式目」の中の第十二条にある「悪口の咎」にあたると言うのです。恐らく松葉が谷に戻った日蓮は、立正安国論にあった様に念仏宗を責め、念仏宗側としても日蓮を憎んでいたのかもしれません。そしてその念仏宗信者と日蓮門下の間には小競り合いがあったのかもしれません。
◆流罪の口実
要は日蓮自身に咎が無くても、恐らく日蓮周囲には幕府にとって捕縛する口実は幾らでもあったのでしょう。
「余存外の法門を申さば、子細を弁られずば、日本国の御帰依の僧等に召合せられて、其になを事ゆかずば、漢土月氏までも尋らるべし」(下山御消息)
日蓮はこの幕府の動きに対して、自身の主張は仏教の教えを正しく述べた事で、悪口でも無いと主張し、三国(日本、中国、インド)の過去の歴史を調べても、私の主張が悪口に当たらないのは明らかだろうと主張しましたが、結果としてその言葉は幕府には届きません。
この時、恐らく日蓮を伊豆流罪にした人物は、処断したのは執権北条長時となっていますが、恐らくその父親である極楽寺重時(北条重時)だと言われています。
この北条重時は暴君の様に日蓮の物語の中では描かれている事が多いのですが、重時は北条義時の子であり三代執権北条泰時の弟です。京都六波羅探題北方を十四年勤め上げ、最明寺入道時頼(北条時頼)が執権の時には連署を務めていました。六波羅探題を務めていた時には和歌を詠み、それが千載和歌集に収録されるほどの文化人だったのです。また京の公家の実力者であった藤原定家とも親交があったと言われ、重時が鎌倉帰還の時には後嵯峨上皇が別れを惜しんだほどだったと言われています。
ちなみに重時は日蓮を流罪にした後、同年11月に亡くなっています。記録としては「厠で狂死」と吾妻鏡にありますが、執権や連署を務めあげた人物の亡くなった時の姿として、公式記録である吾妻鏡にこの様な記録を残される事は珍しいと言われています。北条時頼は重時をかなり重用していたと言われますが、重時は北条得宗家を絶対視する事なく、実績を重視していた人物と言われていますので、そこは北条時頼とは異なった政治的な立ち位置でした。吾妻鏡の記録は、この幕府内における重時の位置づけが現れているのかもしれません。
また、もしかしたら幕府内で日蓮の立正安国論にある念仏批判で、一番精神的にダメージを受けたのは極楽寺重時だったのかもしれませんね。
◆俎板岩の伝説
さて、話が少し本筋から逸れてしまいましたので戻します。
日蓮が伊豆流罪の時、川奈(静岡県伊東市川奈)の「俎板岩」に置き去りにされたという伝説もありますが、これは恐らく後世の創作話でしょう。当時、流罪の手順はしっかり定められており、罪人を護送する役人は、流罪先の受取の確認書を持ち帰る事が定められていました。その手順を蔑ろにして、満潮時に水没する様な場所に護送人が日蓮を勝手に置き去りにする事は考えられません。恐らく日蓮は伊東にある港で降ろされ、そこで土牢に収容されたと考えた方が理にかないます。
ただし日蓮の扱いが正当に扱われたかは不明で、実は地頭の伊東祐光氏が幕府の命で日蓮を預かったのは同年六月十七日と言われています。流罪されたのは五月十二日と言われていますので、意外とぞんざいに扱われていたのがこの事から判ります。そしてこの間、日蓮を保護した人物が船守弥三郎という人物でした。
恐らく流罪人として川奈の地でも日蓮の事は知れ渡っていましたが、その日蓮の噂を聞きつけ、姿を見て何かしら関係を持ったのでしょう。そこで弥三郎は日蓮に帰依をしました。
この船守弥三郎は元甲州上野原の城主で流罪人あったとする説や、元武士で上野氏あった者が漁師になったという説もありますが、恐らく川奈の地にいた漁師の有力者であったのかもしれません。流罪人である日蓮を保護するにも、一介の漁師の立場では難しい事もあると思いますが、例えば漁師を束ねる存在であれば、それなりに日蓮を保護する事も可能だったと思うのです。
◆伊藤佑光について
幕府の命で日蓮を正式に預かったのは、地頭の伊東佑光でした。伊東佑光は浄土真宗の親鸞の高弟と言われています。実は日昭師の母は工藤佑経の娘ですが、叔父には伊東佑時がいてその息子が伊東佑光なので、日昭師にとって伊東佑光は従兄弟にあたります。
この地頭の伊東佑光が日蓮を預かるに際して、病気平癒を日蓮に依頼した事は知られていますが、実はこの背景には日昭師の人間関係があったのではないでしょうか。また日蓮を数か月の間、保護していた船守弥三郎が流罪人を保護した咎を問われなかった事も、実はこういった人間関係が背景にあったのかもしれません。
伊東佑光は浄土真宗の信徒で法華不信の人物でした。その佑光から病気平癒を日蓮は依頼されましたが、彼が法華経に心を寄せている事を知った日蓮は、念仏信仰を止めて法華経に帰依するのであれば、その願いを受けて法華経により病気平癒の祈念を行う事を伝えました。そして伊東佑光もそれを約束したので日蓮は祈祷を行いました。結果として祈祷以降、伊東佑光の病は快方に向かい、そこから日蓮を信頼する様になったのです。
その後、日蓮の待遇は改善された状況が四恩抄に認められています。
「十二時に法華経を修行し奉と存候。其故は法華経の故にかゝる身となりて候へば、行住坐臥に法華経を読行ずるにてこそ候へ。人間に生を受て是程の悦は何事か候べき。凡夫の習我とはげみて菩提心を発して、後生を願といへども、自思ひ出し十二時の間に一時二時こそははげみ候へ。是は思ひ出さぬにも御経をよみ、読ざるにも法華経を行ずるにて候か」
ここでは警護の者が付き、身心ともに安定した生活であった事が伺えます。
この伊豆流罪は弘長三年(1263年)二月二十二日ですが赦免状が届くまでの間、二年近く続きました。赦免状を出したのは最明寺入道時頼と言われていますが、極楽寺重時が亡くなり二年近く経過し、息子で執権であった北条長時も翌年には失職しました。恐らく重時からの意向が弱まった事も、この伊豆流罪赦免には関係しているものと思われます。