
この翌年の文永元年(1264年)十一月十一日に、日蓮は安房国小松原で「小松原の法難」に逢う事になります。
この小松原の法難ですが、安房の天津に向かっていた日蓮一行が小松原(現千葉県鴨川市)に差し掛かった際に襲撃された事件を言います。
日蓮による念仏批判を受けて激しく敵対心を抱いていた東条景信らが日蓮一行を襲撃した結果、弟子の鏡忍房日暁と信者の工藤吉隆が殺害され、日蓮自身も額を斬られるとともに左手を骨折するなどの重傷を負いました。また斬りつけた東条景信も落馬して逃亡したことにより、日蓮は難を逃れたとされています。
これが一般的に日蓮正宗や創価学会で教わっている小松原の法難の概要です。まあ近年、創価学会では日蓮色は極めて薄めているので、こういった事を知っている人も居なくなっているのではないでしょうか。
◆小松原の法難の遠因
さて、ここでは「日蓮による念仏批判を受けて激しく敵対心を抱いていた東条景信ら」となってますが、実際には少し異なるようです。実はこの法難の遠因には東条御厨の件が深く関わっていると近年では言われています。
この事については、前の以下の記事で若干触れました。
この東条御厨はもともとが源頼朝が伊豆の地で旗揚げした後、石橋山の合戦で相模国の豪族で、坂東武者の中心者であった大庭氏に敗れ、真鶴から小舟により安房国へ敗走し、そこで再起を図る際に、東条郷にある荘園を伊勢神宮に寄進し、そこに御厨を建立したものです。そして日蓮が清澄寺に居た時、この荘園を管理していたのが領家の尼でした。
この領家の尼には大尼と新尼の二人がいたとされていて、恐らく清澄寺に日蓮が入門した頃から関係があったと思われます。もしかしたら今流の言葉で言えば、日蓮のパトロン的な立場(支援者)であったのかもしれません。二人のうち大尼は文永八年(1271年)の龍ノ口の法難の際に日蓮からの信仰を捨て去りましたが、新尼の方は生涯に渡り信仰と続け、佐渡や身延にも供養の品々を送り続けました。
この東条御厨に対して、日蓮が比叡山から帰参した頃から地頭であった東条景信は触手を伸ばし始めていた様で、それを清澄寺も寺院保護領として東条景信の手から守っていました。しかし日蓮が帰還後に行った立教開示の一連の騒動により、その清澄寺門徒衆の騒動のスキをついて、東条景信の攻勢が強くなってきたのは先の記事でも少し触れました。
東条景信は北条重時とも通じている人物と言われていますが、家臣ではなかった様です。何故ならもし北条重時の家臣であれば、地頭は北条重時かその身内人が任じされるものですが、東条郷の地頭は東条景信でした。その事から幕府の御家人として、幕府の権威を背景に、東条御厨のある荘園を手中に収めようとしていた様です。
この事について幕府の問注所(現在でいう裁判所)に提訴が為されていましが、これいついて領家の尼から日蓮に助力の要望があったかどうか、そこは明確な資料は残っていません。しかしこの訴訟は幕府の重臣である北条重時を後ろ盾としていた東条景信により、かなり困難を極めていた様です。
伊豆流罪から帰還後、この領家の尼の窮状を知った日蓮は、この訴訟の手助けをしたと言われていて、その手助けにより領家の尼は勝訴し、東条御厨とその荘園を地頭の手から守る事が出来ました。
この事で地頭の東条景信は領地の拡大に失敗し、時の執権であった重時の子、北条長時周辺でも、日蓮の事を更に苦々しく思っていたと思います。
◆小松原の法難について
この当時の状況について、新尼殿御返事には以下の記載があります。
「日蓮は一閻浮提の内日本国安房の国東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼の者すでに半分ほろびて今半分あり」
恐らく勝訴によって「彼の者すでに半分ほろびて」とある様に、東条景信から東条御厨への圧力や、清澄寺への圧力はかなり少なくなったのでしょう。小松原の法難の起きた文永元年(1264年)辺りになると、日蓮はこの時期、母親の看病もあって安房国の長狭街道の往来をしていた様です。そしてそのルートの途中、現在の鴨川市辺りの小松原という場所は、東条景信邸の近くを通っていました。
恐らく東条景信がその日蓮の動向を入手して襲撃をしたというのが、この小松原の法難ではなかったかと思います。そしてそこにあったのは念仏信仰への批判による怒りというよりも、東条御厨を巡る一連の訴訟の敗訴と、そのために面子を潰された日蓮への憎しみがあったのではないでしょうか。
【参考文献】
山中講一郎著 「日蓮伝再考」