
仏教では開祖の釈迦は「悟り」を開いたと言われています。
ではその悟りとはどういった事なのか、経典では「阿耨多羅三藐三菩提」とも言い、それは無明や煩悩を断絶したという風に言われたりしていますが、以前から言われているのは「仏教では悟りの具体的な内容については言及されていない」という事です。
まあ悟りの後の「境地」については、幾ばくかの例を挙げて説明されていますし、原始仏教や大乗仏教でも、だいたい共通しているのは、長きにわたり仏道修行をして得られる境地だという事です。
これは「歴劫修行」という、何世代にも生死を繰り返しながら、仏の下で修行に励む事で、その先に得られるのが悟りであり、仏という境涯だと言う事でした。
◆法華経に於ける成仏観
法華経に於いても、迹門という「従地涌出品」までの間の成仏もこの歴劫修行の先の成仏という事を指していて、舎利弗や目健蓮、迦葉や阿難などの十大弟子に与えられたのは「記別」という、未来世に於ける成仏の約束だったのです。
しかし妙法蓮華経の本門「如来寿量品」で説かれた仏とは「久遠実成の仏」となり、そこで言う仏とは「五百塵点劫」という、思惟も出来ない遠い過去に釈迦は既に悟りを得て成仏をしていたという事です。
ちなみに五百塵点劫とは、どの位の時間を指すのか、そこについて説明します。
これは「五百千万億那由他阿僧祇」という数の三千大千世界(全宇宙)をすり潰して塵にする事から始まります。
まず数量としては以下の数ですね。全て積算で計算する値です。
五百千万億那由他阿僧祇=五百✕千✕万✕億✕那由他(10の48乗)✕阿僧祇(10の52乗)
この数の宇宙を磨り潰して、全てを塵にします。それだけではありません、その塵を持ち、東へ向かい同じく「五百千万億那由他阿僧祇」の三千大千世界を過ぎて1粒、また「五百千万億那由他阿僧祇」の三千大千世界を過ぎて1粒、という事を繰り返していき、その塵が全て落とし終わったら、いままで過ぎて来た塵を落とした、落とさないに関わらず全ての三千大千世界をまとめて再度磨り潰します。そしてその1粒を1劫(43億2千万年とも言います)として考えた数値の「百千万億那由他」倍という時間です。
どうですか、解りますか?
如来寿量品では、この数を理解する事が出来るかと釈迦は弟子に問います。すると弥勒菩薩が以下の様に返しました。
「世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。」
ここで弥勒菩薩は「今世界の大きさも限りなく広大で、計算で知る事は出きません。その数は全ての智慧ある者や菩薩の智慧を以ってしても、その数を知る事が出来ません」と答えたのです。ある意味で当たり前ですね。
そして釈迦はそんな大昔に既に悟りを得て、仏になっていたのだと説いた事を久遠実成と呼んでいるのです。
◆久遠元初というまやかし

日蓮正宗で日寛師は、この五百塵点劫を「まるで昨日の様に感じるほどの更に大昔」と言い、それを久遠元初と言いました。そして日蓮はその久遠元初に悟りを得て成仏し、その仮の姿が久遠実成の釈迦だと言ったのです。
つまり日蓮こそが根源の仏だと言うのです。
しかし法華経の内容を少しでも読んでいれば、この日寛師の言う「日蓮本仏論」は単なるまやかしである事が解ります。
教典の中で弥勒菩薩をして「既に算術などで理解する事が出来ない」という時間を「まるで昨日の様に」なんて定義する事自体がナンセンスなのです。それでは日寛師は弥勒菩薩をも超える存在とでも言うのでしょうか。
そして日寛師は釈迦を日蓮の迹仏として位置づけ、釈迦仏法は末法の私達にとっては無縁の仏法だと定義しました。これにより、特に以降の日蓮正宗門信徒の中には既存の仏教に対して軽視観を醸成してしまいました。
現に創価学会の活動家や法華講員は仏教の基礎的な事には、あまりにも知らなすぎる事からも、それが解ります。
私からすれば、昨今、創価学会の内輪で議論となっている「教学要綱」の問題の一番根っこにあるのは、こういった既存仏教に対する軽視した姿勢だと思うのです。そもそも日蓮は「久遠実成の釈尊」を大事にしていました。これは随身仏もそうですし、四条金吾から釈迦仏を造立したと連絡を受けた際には、仏像の開眼供養の意義についても丁寧に指導している御書が現存しています。
創価学会では近年になり、従来から日蓮正宗が定義していた「日蓮本仏論」を取り下げ、釈迦を本仏として定義し直しました。ただこれは創価学会として仏教の本筋に戻したという事ではなく、日蓮正宗大石寺との決別の一貫としての話であり、創価学会の宗教としては未だ一貫性に欠く言動でしかありません。何故なら未だに会員には日寛師書写の文字曼荼羅を御本尊として置かせていますし、何より2014年11月に教義変更した時に、「日寛師の教学は見直す」と言いながら、未だにその行動を取っておらず、選挙に勤しむ活動家たちの中では「末法の御本仏・日蓮大聖人」が当たり前の様に根付いています。また一部の教学要綱を肯定する創価学会活動家の論説などは、私から言えば肝心な部分が抜けた珍説でしかないのです。
◆釈迦は悟りを開いていない
以前に誰かの論文であったのですが「釈迦は悟りを開いておらず、知ったに過ぎない」という話がありました。そして「後世の弟子たちが、釈迦を忖度するあまり”悟りを開いた存在”として定義づけた」という事がそこには書かれていました。
私はこの意見に同意しています。
法華経如来寿量品では、久遠実成を明かした事で何が指し示されたのか。それはけして従来の悟りを開くとか、成仏するという事ではありません。簡単に言えば、生きとし生ける存在の心の本質に存在するものが仏であり、その仏という存在が、それぞれの時代に出現し、それは「如来」と呼ばれ人々を救済する存在として出現もすれば、修行者や凡夫の姿としての出現しているという事なのです。
如来寿量品の中では久遠実成を明かした釈迦が、その久遠の昔からこの世界に様々な仏や菩薩の姿として出現した事が説かれていますが、その中で燃燈仏であった事もあると明かしました。
燃燈仏とはインド応誕の釈迦の前世、儒童梵士という修行者の時、その師匠となった仏です。儒童梵士は燃燈仏の下で修行を行い、そこで来世には釈迦如来として成仏の記別を与えた仏です。
この時、本地(本当の姿)という観点で見た時、燃燈仏の本地も久遠実成の釈迦であり、儒童梵士も久遠実成の釈迦なのです。同じ時期に久遠実成の釈迦が仏と凡夫、師匠と弟子という姿でこの世界に出現していた事を、この如来寿量品では明かされたのです。またこれはジャータカ伝説の中に出てくる釈迦の過去世の姿全てに当てはまる事にもなってきますし、このジャータカ伝説に於いては釈迦の過去世の姿は、何も人間に留まる事ではなく、動物や様々な神々の姿として説かれています。
これらの事から考えた場合、久遠実成とは単に長遠の過去世という事ではなく、現代の言葉で言えば「根源的」という事の観点で捉えた方が、より近しい言葉になると私は考えているのです。
つまり「仏」とは、人など有情全ての「心の本源」に存在するものと言ってもいいと思うのです。
そしてこれは「悟りを得たから得られる境涯」という事でもなく、そもそも「悟りを開く=成仏」という概念もここでは存在しなくなると思います。
そしてこの事について、如来寿量品では以下の言葉で示しています。
「諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。」
ここでは、法を求める人の中で徳が薄く垢の重い人を見た時、その人の為に私(久遠実成の釈迦)は、私は若い頃に出家して、修行した後に悟りを得たと説いてきたと述べています。つまり如来寿量品以前に説かれた「修行した結果として悟りを得る(成仏)」という事は、方便の一つに過ぎなかったと言うのです。
ここから私は「釈迦は悟りを開いていない」と考えました。
では釈迦はどういう人であったのかと言えば、それは「心の本質を理解した人」という事だったのではないでしょうか。そしてそれは「成仏」という事では無いのです。
この話題は、少し続けていきます。(続く)