
昨日は「釈迦は悟りを開いていない」という事で記事にしました。
このあたりについて、実は日蓮が法華経を精読して理解した成仏観も、その様に理解していたのではないでしょうか。今回はその内容について記事にしてみます。
◆開目抄に見える成仏観
この辺りについて、日蓮は開目抄の中で論及しています。
開目抄は日蓮正宗や創価学会では「人本尊開顕の書」と呼ばれていますが、歴史的な背景や当時の日蓮の状況、また四条金吾にこの御書を託したという観点から見れば、実はそのような御書、人としての本尊が日蓮であると明かしたものではない。これが私の結論です。恐らく開目抄とは、人本尊開顕の書ではなく、日蓮の自身の思想について遺言的にまとめた御書であると思うのです。この辺りの事については、また別に開目抄の内容について記事にしたいと思いますので、ここでは論じる事はしません。
日寛師に至っては「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」という事から、文底秘沈抄などで深堀していますが、これも私からみたら言葉遊びの論にしか思えませんし、この「文底秘沈」という言葉を使って、結果として日蓮の真意をより人々が解り難く事をしたのでは無いかとさえ思えてしまうのです。
日蓮はまず法華経と他の経典を比較して考えてみた時、法華経には他の経典には無い大きな差異があると述べました。
「此に予愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし、」
ここでは法華経と他の経典を比較してみると、様々な相違がある中で、他の学者と日蓮もそうだと感じる事は二乗作仏と久遠実成であると書いています。
二乗作仏とは何か。それは法華経以前の経典の中では、二乗の境涯(声聞・縁覚)の人達は仏になる事が出来ないと徹底して否定されて来たのですが、法華経の譬喩品第三において舎利弗が未来において華光如来として成仏する事が約束され、以降、十大弟子やその他の弟子たちも順次、未来に於ける成仏を約束する言葉が与えられました。これらの事を二乗作仏と呼んでいます。
これは法華経以前の経典(爾前経とも言います)から見たら、挙動天地の事なのですが、もし二乗が仏に成れないとした場合、後の久遠実成を明かしても、逆に人々を混乱させてしまうからかもしれません。
そして如来寿量品第十六において、久遠実成が明かされました。これはどういった意味があったのか、日蓮は開目抄の中でこの事を以下の様に書いています。
「始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」
ここでは久遠実成を明かす事で「始成正覚を破れば四教の果をやぶる」とある様に、実は心の本源が仏である事が明かされた事で、釈迦がこの世界で出家して悟りを開いたという、それまでの成仏の考えを否定した事になります。ここでこれを「四教の果」と呼んでいますが、これは天台大師智顗の「五時八教」の中にある、華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃の五時のうち、法華涅槃以前の四つの時に説かれた成仏の事を指します。
次に「四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ」とある様に、成仏とは長きにわたり修行(因行)をした結果、得られる境涯(果徳)という考え方も否定されましたので、それまで説かれて来た修行という事も否定をされた事になります。
また「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて」とある様に。法華経迹門にあっても仏とは修行の結果得られる境涯としていました。これは先の舎利弗が華光如来として未来世に成仏するという事ですね。しかし久遠実成ではその記別自体をも否定をした事になりました。
そして「本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり」とある様に、そこで示された事こそが本門(本当の意味)の十界の因果であり、それこそが法華経の肝心の法門だと日蓮は明確に書いているのです。
◆本門の十界の因果
ではその「本門の十界の因果」とはどういった事を指すのか、そこについて日蓮は以下の様に書いています。
「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
ここでは九界と言っていますが、地獄界から菩薩界という心の動きは全て無始の仏界(久遠実成の仏)に本来備わっている働きであり、それまで仏界という「現じ難い心の働き」とは、九界の心の姿の働きの奥底に備わり現れる事だというのです。そしてその観点に立って十界互具・百界千如・一念三千を理解すべきと書いているのです。
これは少し難しい話ですよね。
まず仏界という事について、十界論では横並びに人の心に備わる境涯だと教えられてきました。地獄界というどうしようもない苦しみの境涯から、人々を救いたいと願う菩薩境涯。しかし仏界だけは説明できません。
しかしこれが本門の十界の因果の観点となると、九界とは仏界に具わっている姿であり、その仏界は人々の前には九界の姿として現れてくるというのです。つまり横並びの様に九界と仏界を論ずるものでは無いという事です。
要をまとめて言えば、仏界こそが人の心の動きを作り出す根源的な存在であり、この仏というのは九界の姿を通してこの世界に現れているという事と言っても良いでしょう。
そもそも仏界とは何か、それは阿耨多羅三藐三菩提を得た境涯となっています。つまりこの世界の中に出てくる心の動きとは、全てがこの悟りを得た境涯である仏界の働きによって起こされているという事になるのです。
しかしそうなってくると、仏教では四門出遊という説話があります。これは釈迦がまだ王子の時、王舎城がら出かけようとした時に、ある門では病に伏せって苦しむ人の姿を見て、また別の門では老いに苦しむ人の姿を見て、さらに別の門では死人の姿を見たという説話です。そして最後の門では出家者を見て、この人生にある四苦(生・老・病・死)を解決するには出家の道に拠るしかないと考え、後に出家をしたという事が描かれています。
仏教の目的とはそもそもこの四苦の解決をする事が根本にありますが、これが「本門の十界の因果」の上から考えた時には、この四苦も別の意味を持ってくるのです。
今回はここまでにします。この続きはまた次回に。