自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

龍ノ口の法難について①

さて、日蓮の話題に戻ります。

前回の記事では小松原の法難まで書きました。

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日蓮は伊豆流罪から生還するだけではなく、小松原法難の前後では地頭の東条景信との訴訟で勝利して、しかもその東条景信からの闇討ちの中でも生き延びていました。

恐らく鎌倉幕府からしたら、しぶとい日蓮というふうに考えられていたのかもしれません。

その後、日蓮は鎌倉の地にあって門下の育成と教勢の拡大、また自らの法門への思索を深めていた時期だったのかもしれません。

小松原の法難の後、三年余り経過した時、日本に大きな問題が降りかかってきました。それは文永五年(1268年)に蒙古国(元)からの国書が到来した事で、これにより日蓮立正安国論で指摘していた「他国侵逼難」がいよいよ現実味を帯びてきたのです。

時の鎌倉幕府の中心者は、北条長時の後の第七代執権北条政村から第八代執権北条時宗へ移行する時期でした。この初めての国難とも言うべき事態に、幕府の中は執権交代時期も重なっていたので、おそらく様々な議論で沸き返っていたと思います。

そんな時に日蓮は、自分が立正安国論で予見した通りの事態に推移した国の姿を見て、自らの主張が正しかった事を確信したのでしょう。幕府の要人や鎌倉の有力寺院など11か所に宛てて諌暁の書状を相次いで発送しました。いわゆる「十一通御書」と言われるものです。

諌暁書の宛先は以下の人達でした。

 ・北条時宗(執権)
 ・宿屋左衛門光則(宿屋入道)
 ・平左衛門尉頼綱(得宗家の身内人)
 ・北条弥源太(北条氏一門の有力者)
 ・建長寺 道隆
 ・極楽寺 良観
 ・大仏殿 別当
 ・寿福寺
 ・浄光明寺
 ・多宝寺
 ・長楽寺

日蓮はこの中で、幕府が仏法の本義を理解せずに仏教各宗派を支援し、各仏教宗派はその利権にぶら下がり、結果として本来の「国家鎮護の仏教」としての役割を担えていないと考えていたので、法華経の一乗へ国として帰依する様に諌暁し、その為に各宗派に対して「公場対決」を強く求めてました。しかし結果としてこの日蓮の十一通の諌暁書は無視される事となりました。

しかしこの姿勢が結果として、後の龍ノ口の法難の伏線へとつながって行きました。

また日蓮立正安国論では鮮明にしていませんが、真言宗天台宗に対しても攻撃を進め始めたのです。これは文永六年に「真言七事勝劣事」、また文永七年には「真言天台勝劣事」「善無畏三蔵抄」等の諸御書が認められた事からも見て取れます。

しかし先にも書きましたが、第八代北条時宗へと幕府の権力が移行する微妙な時期にあって、日蓮がこの様な行動をとった事が、幕府の憐憫にふれない筈がありません。結果として文永八年(1271年)9月11日に日蓮は幕府の評定所に召し出される事となりました。これは今で言えば全閣僚のいる諮問委員会へ出頭を求められたという事に近いでしょう。

この時、恐らく幕府の主要人物の前で日蓮は自身の主張をどの様に述べたのか、種種御振舞御書に書かれているので、そこを見てみたいと思います。

天照太神八幡宮の比の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかとをもわるべきにさはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず」

ここでは日本国の守護神でもある天照大神や正八幡菩薩が、国を助けるべき恩計らいとして日蓮が諌暁したにも関わらず、それを返事も無く無視した事はどういう事なのかと、日蓮の諌暁に対する幕府側の姿勢を咎めたのでしょう。

「設い日蓮が身の事なりとも国主となりまつり事をなさん人人は取りつぎ申したらんには政道の法ぞかし、いわうやこの事は上の御大事いできらむのみならず各各の身にあたりてをほいなるなげき出来すべき事ぞかし、而るを用うる事こそなくとも悪口まではあまりなり、此れひとへに日本国の上下万人一人もなく法華経の強敵となりてとしひさしくなりぬれば大禍のつもり大鬼神の各各の身に入る上へ蒙古国の牒状に正念をぬかれてくるうなり」

そしてこの諌暁は日蓮が行ったという事であっても、国の政を行う人は取り次ぐ事こそ政治の道ではないのか。これは各々方に大いなる嘆きをもたらす事である。しかし無視をするばかりかその日蓮を悪く言う事はあまりに酷い仕打ちであり、これでは日本国の全ての人々は法華経の敵になったという事であり、蒙古国に心を抜かれ狂ったようなものだと言いました。

この様に日蓮からの主張を聞いた後、幕府として評定所日蓮の言葉について詮議をした様ですが、その結論は以下の様なものでした。

「ますますにくみて御評定に僉議あり、頚をはぬべきか鎌倉ををわるべきか弟子檀那等をば所領あらん者は所領を召して頚を切れ或はろうにてせめあるいは遠流すべし等云云。」

この日蓮の言動で幕府内では日蓮への反感がより強まり、「首を刎ねよ」「鎌倉から追い出せ」「日蓮の弟子や旦那で所領のあるものは召し上げて首を切れ」「牢獄へ閉じ込めろ」「流罪にしてしまえ」という意見が噴出した様子が、種種御振舞抄には書かれています。

この評定所への諮問の翌日、日蓮は平左衛門尉頼綱に呼び出されました。日蓮の物語の中で、平左衛門尉頼綱は極悪人の様に書かれています。確かに後の「平禅門の変」の時んは頼綱も内管領であり得宗家の執事という立場にあったので、横暴さもあったかと思いますが、この時代にはそういった事よりも、新執権である北条時宗の下で、他宗派と共に共闘する立場が取れないのか、そこを確認したのかもしれません。しかし恐らく日蓮は前日と同様の主張を、改めて平左衛門尉頼綱に行ったのでしょう。

結果として、その日の深夜に日蓮は龍ノ口に於いて斬首される事になったのではないでしょうか。