自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

龍ノ口の法難について②

さて、龍ノ口の法難について話を続けます。

この龍ノ口の法難を知る手がかりとしては、日蓮の種種御振舞御書が一つの手がかりとなります。恐らく幕府の瞋りの根本原因の中には、当時の鎌倉仏教界の中から日蓮への讒言も多くあった事が伺われます。

それは日蓮は故最明寺入道は無間地獄に堕ちたと吹聴しているとか、各有力寺院を焼き払い、そこの僧侶の首を刎ねよと言っている等、根の葉もない流言飛語が飛び交っていたのでしょう。恐らく日蓮の言動の中にも、それを匂わせてしまう様な言動があったのかもしれませんし、日蓮自身になくても門信徒と他宗派との間の小競り合いの中で、そういった流言飛語の元になるような言葉があったのかもしれません。

当時の鎌倉仏教界からすれば、もし日蓮の諌暁が幕府内に取り入れられた場合、それまで手中にしていた宗教利権が脅かされる事を恐れて、幕閣の奥方等に取り入りながら、そういった流言飛語を広めていたのでしょう。この事について種種御振舞御書には以下の様に書かれています。

「さりし程に念仏者持斎真言師等自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎尼ごぜんたちにとりつきて種種にかまへ申す」

幕府内に日蓮への憎悪を掻き立てた事には、こういった流言飛語があった様ですが、それは日蓮がいくら弁明しても埒が明かず、恐らく日蓮が「公場対決」を求めたのも、こういう流言飛語に対する反論をしたいという事もあった様です。

しかしそれすら叶いませんでした。平左衛門尉頼綱からの呼び出しの後、その夜半には日蓮の身柄は平左衛門尉頼綱の軍勢による襲撃にあい、日蓮の身柄は武蔵守、これは連署北条義政ですが、その預かりとなってしまいました。そして恐らく日蓮の忙殺については、執権の北条時宗の与り知らぬ処で、連署北条義政を中心に進められた様です。

ちなみに北条義政の父は北条重時であり、恐らく幕府の中で、日蓮への反感を一番持っていた事物なのではないでしょうか。

幕府の公式としての斬首では無いので、9月12日の夜中に日蓮は龍ノ口の刑場へと引き出された様です。このあたりは日蓮の種種御振舞御書に詳細が書かれています。

「さては十二日の夜武蔵守殿のあづかりにて夜半に及び頚を切らんがために鎌倉をいでしにわかみやこうぢ(若宮小路)にうちいでて四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮云く各各さわがせ給うなべちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事ありとて馬よりさしをりて高声に申すやう」

この龍ノ口への刑場へ向かう途中、有名な「八幡の諌暁」が行われました。八幡宮の前で日蓮は「八幡大菩薩に対して申したい事がある」と馬を下り、大声て八幡宮に向かい自身が首を切られる事になった事の不正について責め、それに対して八幡大菩薩として守護の無い事を責め立てたてました。

おそらく引率の武士たちはこの日蓮の姿に恐怖を覚えたのではないでしょうか。

当時は現代と比較にならない程、神仏に対する畏敬の念を武士達は持っていました。ましてや日蓮は僧侶です。その僧侶をこれから処刑するという事は、武士の中でも後ろめたさを持った人は多く居たでしょう。そんな時、その僧侶の日蓮が鎌倉の鎮守たる八幡大菩薩に大声で諌暁をする姿は、奇異というより恐怖を掻き立てた事は想像に難くありません。

またこの時、日蓮熊王という童子四条金吾邸に使わして、これから処刑されるという事を伝えました。これは四条金吾が当時の鎌倉に於ける日蓮信徒の代表格であったからでしょう。

この報せを聞いた四条金吾とその兄弟は即座に日蓮の下に駆け付けました。そして日蓮の乗る馬の口輪に取り付き龍ノ口の刑場まで共に向かいます。

龍ノ口の刑場にい到着し、おそらく四条金吾は「追い腹」を覚悟して泣き崩れたのでしょう。日蓮はそんな四条金吾に対して諭します。日蓮申すやう不かくのとのばらかなこれほどの悦びをばわらへかし」日蓮はこうなる事は覚悟の上だったと四条金吾に諭しました。

とここで、「光物の伝説」の話となります。種種御振舞御書の中に書かれているこの部分は以下の様なものでした。

「江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり、日蓮申すやういかにとのばらかかる大禍ある召人にはとをのくぞ近く打ちよれや打ちよれやとたかだかとよばわれどもいそぎよる人もなし、さてよあけばいかにいかに頚切べくはいそぎ切るべし夜明けなばみぐるしかりなんとすすめしかどもとかくのへんじもなし。」

ここでは江の島の方角から月の様な光物が現れて、それが東南の方から来て、北西の方へ抜けていったというのです。この光物の出す強い光の為に首を切る侍は腰を抜かしひれ伏したと言い、結果として斬首は中止となってしまいました。

この伝説により日蓮の人物像は、後世において孤高の存在として固められる事になりました。まさに末法の本仏としての「魔訶不可思議な法力」が、この光物によって裏打ちされた様に伝説化したのです。そしてこの事件を「発迹顕本」とも呼ぶようになったのです。要は迹(仮)の姿を払い本地(久遠元初の本仏)の姿を著わしたのだと。

近年でもこの「光物」は何だったのか、真面目に研究し、一部の研究者の間では彗星が現れたと言い、それこそ宇宙の森羅万象を司る日蓮という姿まで誠しやかに語られていました。

しかし本当に光物はあったのでしょうか?

ここで2013年にロシアに隕石が落下した事件の動画を紹介します。

www.youtube.com

この時、ロシアに落下した隕石の大きさは十数メートルと小さいものでしたが、落下時の衝撃波、またそれによる主変地域への被害はとても大きなものでした。

小さい隕石ですら、これだけの被害が発生しているのです。

ではもし日蓮が首を切られる寸前に、彗星が掠め飛んだとした場合、その時に発生する光の強さや衝撃波はどれだけのものとなったのでしょうか。少なくとも鎌倉幕府の公式記録でもある「吾妻鏡」には、何らかの記録が残されていても良いはずですが、そういった記録は一切ありません。

武士が一斉に地面にひれ伏すほどの光量を放つ隕石などがあった場合、そういった記録は残っていても良いはずです。それともUFOが出現し、日蓮を守ったとでも言うのでしょうか。

ここで考えられるのは、「日蓮自伝考」の著者である山中講一郎氏も考察していましたが、日蓮がある出来事について「韜晦」した表現(暗喩)が「光物」だったのではないかという説です。

実は日蓮の御書の中にも、この「ひかりもの」の記述については種種御振舞御書の他、四条金吾殿御消息にしか書かれていません。もしそれほどの事があったのであれば、四条金吾以外の門徒にも堂々と日蓮は語っていても良い内容かと思いますが、実はほとんど記述が無いのです。

これは想定ですが、もしかしたら連署である武蔵守北条義政の独断で進められた日蓮の謀殺の計略が、何らかの形で執権である北条時宗の耳に入り、急遽中止すべき命令が届いたという事もあるかもしれません。またその場合、日蓮はその事実を当時の幕府内の状況を考慮し、文書としては明確に書く事も憚られたでしょう。

種種御振舞御書を読んでいくと、この龍ノ口の首の座を辛くも逃れた日蓮は、依知(神奈川県厚木市)にある御家人、本間六郎左衛門の館に預かりの身となりましたが、そこに鎌倉から使いが来て、武蔵守は熱海へ湯治に出かけた事が述べられ、鎌倉からは「追状に云く此の人はとがなき人なり今しばらくありてゆるさせ給うべしあやまちしては後悔あるべし」とあったと言うのです。恐らく首謀者である連署の北条義村は、今回の日蓮への独断処罰という行いについて、ほとぼり冷めるまで熱海に身を移したのかもしれません。

また後に十郎入道という人物が本間邸を訪れて言うのは「昨日(十三日)の夜の戌の時計りにかうどのに大なるさわぎあり、陰陽師を召して御うらなひ候へば申せしは大に国みだれ候べし此の御房御勘気のゆへなり、いそぎいそぎ召しかえさずんば世の中いかが候べかるらんと申せば、ゆりさせ給へ候と申す人もあり」と、鎌倉御所の中で何かしらの怪異があって、そこで陰陽師に騒動について占わせたところ、日蓮を殺してはならぬという事が陰陽師から言われたという事も種種御振舞御書には書かれています。

もしかしたら鎌倉幕府の中にも、日蓮の諌暁には理があるとして、理解者が居たのかもしれませんし、そこには若き執権である北条時宗の意思も介在していたのかもしれないのです。

こういった事を考察していくと、龍ノ口の法難とそこに出てきた「光物」。また日蓮の諌暁が幕府に与えた事について、また違った側面も見えてくるのではないでしょうか。

【参考文献】
山中講一郎著 「日蓮自伝考」