自燈明・法燈明のつづり

思いついたら書くブログです

佐渡流罪

今回も日蓮の事を続けます。

相模国依知(現在の神奈川県厚木市)にとどめ置かれていた日蓮は、その後、幕府の命により佐渡島流罪となりました。

龍ノ口の首の座があったのは9月12日で、10月に幕府から佐渡流罪の決定がなされたので、1か月近く、この相模国依知に止め置かれたのですが、この間、幕府の内ではこの日蓮の処遇を巡って激しい議論が交わされていた様です。この辺りの経緯については、山中講一郎氏の「日蓮自伝考」に考察が書かれていますので紹介します。

「時を経て時宗に知らせが入ります。平頼綱は幕府にもどり時宗からことのいきさつを問われます。時宗は決断をせまられることになります。そのおりに時宗の近辺に異変がおき始めます。日蓮聖人の処刑は中止される方向に進みますが、平頼綱の権力は強く、このことが、日蓮聖人の処遇を長引かせます。日蓮聖人を容易に赦免すれば幕府の威信を弱めます。また、責任者たちの処分をどうするかという問題があります。平頼綱たちを処断することは、幕府にとって弱体化することになるのではないかという問題を抱えたのです。」

またこの間、日蓮が留まっていた依知の本間邸では「梅の木の明星出現」の伝説というのもありますが、ここでは割愛します。ただ本間邸に日蓮がいる間、本間家の家臣の中には日蓮に帰依する者が出てきたという事もありました。

佐渡島への移送

さて佐渡島ですが、そこは北条宣時の所領でした。北条宣時日蓮を謀殺しようとした人物の一人でもありましたので、ここを考えてみても日蓮の身の安全が完全に保証されていた訳ではない事が解ります。そしてこの北条宣時守護代(代官)として本間重面が日蓮佐渡流罪の護送を担当したと思われます。

日蓮の生涯と護送ルート(娘への遺言)から引用)

日蓮の護送ルートは10月10日頃に依知を出立し、陸路で相模→武蔵→上野→越後と移動した様です。恐らく今で言う、厚木市から東村山方面へ抜けるルート(現在、鎌倉街道と言われる道)を通り、埼玉県へ抜け、そこから利根川沿いに沼田から三国峠を抜けて、新潟へ至る道筋と思われます。

新潟から佐渡に渡るため、寺泊に日蓮一行が到着したのは10月21日で、この当時は海が荒れていたので、佐渡島に渡ったのは10月28日と言われています。

そして日蓮の配流先は塚原三昧堂ですが、これは墓地の中にあった廃寺の御堂とされ、間口は一間(約1.8メートル)の御堂と言われています。この佐渡流罪となった際、「元祖化導記」には佐渡公と伯耆公の二名が従者として付いていたとありますが、これは日向師と日興師の2名であった様です。日向師は民部公や民部阿闍梨と呼ばれましたが、身延期には佐渡公、佐渡阿闍梨と呼ばれていたので、そこからこの二名が日蓮に常随給仕していたと思われます。

この塚原三昧堂は、墓地にある掘っ建て小屋と思われていますが、恐らく庇しのある建造物であり、その部分を含めると八畳ほどの広さがあったのではないか「日蓮自伝考」で山中講一郎氏は考察しています。確かにその中で書を著し、弟子二名と生活を共にするのであれば、その程度の広さはあったというのが合理的と思います。しかしながら壁や屋根には隙間があり、隙間風と雨漏り、冬には雪も入り込む様な場所であったのでしょう。そこは大変苛酷な環境であったと思います。

しかし日蓮は、この佐渡の塚原三昧堂で、昼夜に身を狙われなが、また何時幕府から再度斬首の命令が来るかもしれない中、自らの法門で重要な御書などを記して行ったのです。

【参考文献】
山中講一郎著 「日蓮自伝考」