
日蓮の事について続けます。
最近、SNSでは公明党やその支持者たちが必死に、公明党は凄いとか、実績オバケだとか言っていますが、彼らの大半はそもそも創価学会員であり、日蓮の顕した文字曼荼羅に日蓮の唱えた御題目を日々唱えているんですから、もう少し日蓮に関心を向けても良いのではないでしょうか。
私などは創価学会の活動を離れ、公明党も一切支持しない者ですが、やはり自分が信じてきた日蓮については、せめてその「志(こころざし)」は知りたいと考えているんですけどね。
でも日蓮の生涯を理解したら、公明党なんて「熱烈支援」は出来なくなりますので、やはり無関心でも致し方ないのかもしれません。恐らく創価学会としても、そういった方針なのでしょう。
◆佐渡での生活
日蓮は依知から佐渡に流罪となり、塚原という墓所の脇にある「三昧堂」という掘っ建て小屋同然の御堂に住まわされる事になりました。その事については、種種御振舞御書に書かれています。
「十月十日に依智を立つて同十月二十八日に佐渡の国へ著ぬ、十一月一日に六郎左衛門が家のうしろ塚原と申す山野の中に洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に一間四面なる堂の仏もなし、上はいたまあはず四壁はあばらに雪ふりつもりて消ゆる事なし、かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす、夜は雪雹雷電ひまなし昼は日の光もささせ給はず心細かるべきすまゐなり」
この塚原は守護代の本間氏の邸宅の裏方にあったようで、先に「墓所」とは言いましたが、鎌倉時代当時は、死人の多くは市街地から離れた野山に棄てるのが一般的でしたので、そういった場所にあった御堂という事でしょう。その御堂に鹿の皮を敷き住んでいましたが、御堂の屋根や壁には隙間があって、冬には堂内に雪が積もり夜には雷が鳴りやむ事は無かったとあります。
とても苛酷な環境なのが、この文から伝わってきます。
「塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり、又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが守殿の御台所の御懐妊なればしばらくきられず終には一定ときく、又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんばはからうべしと云う」
ここでは佐渡に流罪された日蓮の身の危うさについて書かれています。要は人里離れた御堂に一人すんでいるのだから、いっその事殺害してしまえという声もあった様です。またいずれ首は切られるだろうが、佐渡守(北条宣時)の奥さんが身ごもっているので今は許されているだけだ、という声もあった様です。また六郎左衛門殿(本間氏)に行っても斬首しないのであれば、そうなる様に幕府に働きかけてやるという声もあった様です。
日蓮は鎌倉の地で、念仏宗等に批判を徹底して行った人物ですが、佐渡でも念仏者が多く、彼らの中では「悪僧日蓮」という意識が根強くあり、流罪になった当時も常に命を狙われていましたし、幕府の命令についても何時覆るのか解らない状況に於かれていたのが解ります。
◆塚原問答
種種御振舞御書の先を続けます。
「多くの義の中にこれについて守護所に数百人集りぬ、六郎左衛門尉云く上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかしと云いければ念仏者等或は浄土の三部経或は止観或は真言等を小法師等が頚にかけさせ或はわきにはさませて正月十六日にあつまる」
恐らくそういった日蓮に敵意を持った人達が、守護代である本間氏の元にあつまり強訴をしたのでしょう。ここでは「数百名」とありますが、実態として数十名かもしれません。彼らは恐らく日蓮の殺害を求めに行ったのでしょう。しかし守護代の本間氏は、日蓮は幕府から「殺害してはならない」という添状があり、けして粗末に扱うべき人物ではないと述べ、もし殺害した場合には本間氏が幕府から咎められてしまうと言いました。
この時、本間邸に押しかけたのは佐渡にいる僧侶たちであり、彼らは日蓮を自分達の宗派の怨敵とも思っていたでしょうし、恐らく佐渡にあっても自分達の宗派の門信徒が獲られてしまう事を懸念していたのかもしれません。それは血気盛んな状態で押しかけて来たと思います。
それに対して本間氏は「僧侶であればまずは法門で決着すべきである」と提案したのでしょう。それを受けた僧侶たちは日蓮と対論すべく一月十六日に、塚原の地に集まってきました。これが塚原問答です。
「佐渡の国のみならず越後越中出羽奥州信濃等の国国より集れる法師等なれば塚原の堂の大庭山野に数百人六郎左衛門尉兄弟一家さならぬもの百姓の入道等かずをしらず集りたり、念仏者は口口に悪口をなし真言師は面面に色を失ひ天台宗ぞ勝つべきよしをののしる、在家の者どもは聞ふる阿弥陀仏のかたきよとののしりさわぎひびく事震動雷電の如し」
これを見ると佐渡の僧侶たちは近隣の僧侶も結集をして問答に臨んだ様です。当時の事なので、本当に周辺から参集したかどうかは判りません。ただここでは「越後越中出羽奥州信濃等の国国より」とある様に、現在の山形県や新潟県、富山県などからも来た僧侶が居たとあります。また僧侶だけではなく、本間氏一族や佐渡の百姓衆なども集まり、一代イベントの様な盛り上がりの状況であった様です。
そして集まった僧侶たちは日蓮の姿を見ると、それぞれに日蓮を罵り、自分達が勝つぞとばかりに大声を出すなど、塚原周辺は騒然となりました。
「日蓮は暫らくさはがせて後各各しづまらせ給へ法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなしと申せしかば六郎左衛門を始めて諸人然るべしとて悪口せし念仏者をばそくびをつきいだしぬ」
そんな僧侶たちの騒ぎを見て日蓮は少しの間は騒がせて、頃合いをみて「法門の正邪を結する為に集まってきたのであれば、悪口もそろそら止めたらどうですか」と声をかけ、それに対して守護代の本間氏や見に集まった人達も「その通りだ」と言った事から、漸く僧侶たちの騒ぎも落ち着いた様です。
「さて止観真言念仏の法門一一にかれが申す様をでつしあげて承伏せさせてはちやうとはつめつめ一言二言にはすぎず、鎌倉の真言師禅宗念仏者天台の者よりもはかなきものどもなれば只思ひやらせ給へ、利剣をもてうりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなるのみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ、善導が柳より落ち弘法大師の三鈷を投たる大日如来と現じたる等をば或は妄語或は物にくるへる処を一一にせめたるに、或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。」
ここは実際の問答の内容ですが、恐らく参集した僧侶はそれぞれに準備はしてきたのでしょう。でも簡単に言えば「詰めが甘い」という状況であり、日蓮はその様を「利剣をもてうりをきり大風の草をなびかすが如し」と、恐らく深い議論にすらならず決着が付いてしまったと言うのです。中には「当座に袈裟平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり。」と問答の内容を見ていて、こりゃ念仏宗はダメだと改宗する人も出てきた様です。
◆一つの不思議
さて塚原問答も終わり、本間氏も本邸に戻る時に、日蓮は本間氏を呼び返しました。
「日蓮不思議一云はんと思いて六郎左衛門尉を大庭よりよび返して云くいつか鎌倉へのぼり給うべき、かれ答えて云く下人共に農せさせて七月の比と云云、日蓮云く弓箭とる者はををやけの御大事にあひて所領をも給わり候をこそ田畠つくるとは申せ、只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくりいくさにはづれたらんは恥なるべしと申せしかばいかにや思いけめあはててものもいはず、念仏者持斎在家の者どももなにと云う事ぞやと恠しむ。」
ここで日蓮は本間氏に、次は何時頃に鎌倉へ上るのかを問いました。本間氏は今が冬なので、春が来て下人たちに農作業をさせた後なので、恐らく七月頃には行くつもりだと答えました。それを聞いた日蓮は、武士たる者は世の中の大事があった時に駆け付けるからこそ所領を得ているのであろう、間もなく戦があるかもしれないのに、田んぼで農作業をしている場合なのかと本間氏に問いました。
それを聞いた本間氏は、何か思いついた様にしましたがそこでは何も言わず、それを聞いていた僧侶や参集した人たちは、日蓮は一体何を言っているのかと訝しんだとあります。
この塚原問答は文永九年一月十六日ですが、同年二月に「二月騒動」というのが幕府内で勃発します。これは執権の北条時宗と、その兄で六波羅探題にいた北条時輔の間で起きた争いです。くしくも日蓮が立正安国論で予見した「自界叛逆難」にあたる騒動が勃発したのです。
これを後世の日蓮門下は「御本仏の御仏智」と考える向きもありますが、私は日蓮が幕府の動静を深く注視していた証だと考えています。日蓮が龍ノ口の斬首を逃れたのは、幕府内にある不協和音の表れでもありました。だから日蓮は鎌倉在住の有力門下、例えば四条金吾等から幕府の内情について常に入手していたのでしょう。そしてその情報の中から二月騒動の動きを察知していたのかもしれません。
佐渡の地にあり、過酷な環境の中で命を狙われる状況にも関わらず、この社会の動向を常に鋭敏に捉えていた日蓮という人物は、やはり大人物と言っても良いのではないでしょうか。