
さて、徳川家のみ海外交易を独占していた江戸幕府ですが、慶長八年(1603年)から250年後にあたる嘉永六年(1853年)に大きな変化を余儀なくされる事件が訪れます。それがペリー来航です。
◆ペリー来航までの世界の動向
日本で徳川幕府が政権を担ってより、世界はどの様に変化をしていたのでしょうか。ペリー来航を書く前に少しまとめてみます。
14世紀から15世紀にスペインとポルトガルから始まった大航海時代は、インドなどアジア諸国とアメリカ新大陸の現地人に大きな変化をもたらしましたが、ヨーロッパ本土にも大きな変化を起こしました。
大航海以前、アジアを含む東方交易の中心地はイタリアのベネチア等の地中海周辺の商標都市国家でした。しかしインドからの香辛料が直接ポルトガルのリスボンに運ばれる事になり、そこでヨーロッパ内に商品化され流通した事で、それまでの商業都市国家の繁栄は終焉を迎えました。
また16世紀頃にはスペインが新大陸(アメリカ大陸)を征服し、中米のポトシ銀山(現在のボリビア)を支配する事によって、大量の銀がヨーロッパにもたらされ、結果として物価が急上昇(いわゆるインフレーション)し「価格革命」が起きました。この結果、地代収入に依存していた領主階級の没落を決定的にして、ヨーロッパの封建制度の崩壊を早めたのです。
またこの封建制度の崩壊は、それまでの封建国家から主権国家の台頭にもつながって行きます。イギリスでは17世紀前半にホップス、17世紀後半にロックが登場し「社会契約論」が説かれる様になり、18世紀にフランスのルソーによって主権国家の主権者は人民と位置付けられ、それが後にフランス革命やアメリカの独立戦争へとつながって行ったのです。
またヨーロッパ経済の中心地も大航海時代を契機に、リスボンやベルギーのアントウェルベンなど大西洋岸に面して移った事で、中世以来のフッガー家やメディチ家などの金融財閥は没落をしていき、その中で新興の金融財閥として18世紀頃にはドイツのフランクフルトでロスチャイルド家が発展し、近代国家の金融システムの構築を進めていく事にもなって行きました。
また18世紀頃には、イギリスで起きた産業革命により工業化の波が起こり、そこでは蒸気機関をはじめとした様々な技術革新も進んで行き、これが後に資本主義の成立へと続いていったのです。
ここまで大枠な時系列で、ヨーロッパを中心とした世界の動向をまとめてみましたが、要は徳川幕府が250年間の間、日本を治め、平和で安定した時代の間、世界(特にヨーロッパを中心として)は大きな変革期を迎えており、国家の形や技術革新、また経済的な進化を遂げていたのです。
◆アメリカ合衆国のアジア進出
さてペリー来航ですが、その前にもう少しこの周辺の事を書き連ねて行きます。
この当時、産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国では、工業化により大量生産された工業品の輸出拡大が急がれていました。これは特にインドを中心に東南アジアと中国大陸の清国への市場拡大が急がれており、そこでは熾烈な植民地獲得競争が始まっていたのです。この市場拡大は当時海洋王国と言われていたイギリスが優勢となっており、次にフランスなど欧州各国が続く形になっていました。
この時、18世紀に独立したアメリカ合衆国は大きく出遅れていました。
アメリカ合衆国は19世紀(1833年)にシャム(現在のタイ王国)とマスカット(現在のオマーンにある都市)との条約締結に成功し、1835年には日本と清との間で条約締結をする為に特使を派遣する事を決定したのです。この時に、後に日本に来航する東インド艦隊を設立しました。
しかし1840年にイギリスと清の間でアヘン戦争が勃発した為、その終結後の1844年に清との間で望厦条約を締結、アメリカは中国市場への進出を漸く果たす事が出来たのです。
この時、東インド艦隊の司令官としてジェームス・ビルトが清に派遣されましたが、このビルトは日本との条約交渉の任も負っていました。ビルト率いる東インド艦隊は1846年に浦賀へ来航したのですが、この時、東インド艦隊が浦賀に来航する事が事前にオランダ政府から徳川幕府へは知らされており、艦隊が浦賀に入港した時には、直ちに日本の船が艦隊を取り囲み、ジェームス・ビルトの上陸は幕府から許可はされなかったのです。
幕府からビルトへは、徳川幕府としてはオランダ以外とは通商を行わない事、また外交関係は全て長崎の出島で行っている為、そちらへ回航して欲しい旨伝えました。ビルト側でもこの時、アメリカ政府からは「辛抱強く、敵愾心や米国への不信感を煽ること無く」を求められていた事もあり、そこで交渉は中断して東インド艦隊は浦賀を出航しました。
少し話は変りますが、この当時、産業革命により欧米の工場やオフィスでは夜遅くまで稼働する様になった事から、その工場で利用する潤滑油やランプの灯火に利用する油としてマッコウクジラの鯨油が求められていました。この需要を満たす為、欧米各国では世界中の海で捕鯨を盛んに行っており、日本近海もその漁場となっていたのです。
日本近海は「ジャパン・グラウンド」と呼ばれる伊豆諸島や小笠原諸島付近の漁場があり、その他にも「カムチャッカ・グラウンド」と呼ばれるカムチャッカ半島東方の漁場もありました。アメリカ東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行う事が普通でしたが、当時の捕鯨船では船上で鯨油の抽出を行っていました。その為に大量の薪と水が必要であり、それ以外にも長期航海用の食糧や薪、そして水が補給できる拠点が求められていたのです。そしてこの状況は、アメリカも例外ではありませんでした。
アメリカは既に1846年にイギリスとの交渉で、オレゴンの南半分を領土としていましたが、同年に米墨戦争(メキシコとの間の戦争)によりカリフォルニアを獲得しました。これによってアメリカは太平洋に接する事が出来るようになりましたが、この事から巨大市場である清との貿易開拓が国家の目標ともなりました。
そしてアメリカは西海岸から清に至る最短航路として、西海岸から北上し、アリューシャン列島、千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海に至る航路を考えており、その為に津軽海峡に面した松前に補給拠点を設ける事も検討していたのです。
◆ペリー登用

1851年(嘉永四年)5月29日、アメリカ大統領のフィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としての任務を与えました。
6月8日には蒸気船フリゲート艦「サスケハナ」は艦隊の旗艦となるべく極東に向けて出港しましたが、この時、オーリックはサスケハナ艦長との間でトラブルを起こして解任されてしまいました。そしてその後に遣日特使として任命されたのが同じく代将であるマシュー・ガルブレーズ・ペリーでした。
実はペリー、日本の開国任務が与えられたのは1852年11月13日だったのですが、その2年近く前の1851年に独自の日本遠征計画を海軍長官であるウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していたのです。
この時に提出されていた計画書の内容は以下の様なものでした。
・任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、そのうち3隻は大型の蒸気軍艦で
あること。
・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、眼で見る事で近代国家の
軍事力を認識できるだろう。
・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖を訴える方が、友好を
訴えるより多くの利点があるだろう」ということ。
・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉はさけるべきである。
ペリーに日本開国の任務が与えられると、彼の計画は更に大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」「サラトガ」「プリスマ」に加えて本国艦隊の蒸気艦4隻、帆船戦列艦1隻、帆船スループ艦2隻、帆船補給艦3隻の合計13隻の大艦隊編成を要求しました。
しかし蒸気艦4隻のうち使用できるのは「ミシシッピ」のみであった事、また戦列艦は費用が掛かりすぎると除外され、代わりに西インド艦隊から帰国したばかりの蒸気フリゲート艦「ポーハタン」が加わる事になりました。