自燈明・法燈明のつづり

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ペリー来航

1852年11月24日、代将のマシュー・ガルフブレーズ・ペリー司令官を乗せた蒸気フリゲート艦「ミシシッピ号」は、1隻でノーフォーク港を出港し、一路アジアへと向かいました。始めミシシッピ号は大西洋を横断し、以下のルートを取りました。

◆大西洋を経てアジアへ

・12月11日~12月15日 マデイラ諸島
・01月10日~01月11日 セントヘレナ島
・01月24日~02月03日 南アフリカケープタウン
・02月18日~02月28日 インド洋モーリシャス
・03月10日~03月15日 セイロン
・03月25日~03月29日 シンガポール
・04月07日~04月28日 香港・マカオ

そして1853年5月4日にペリーは上海に到着しました。この間に香港で「プリマス」及び「サプライ」と合流し、上海で蒸気フリゲート艦「サスケハナ」と合流しました。実はこの時、大統領はフランクリン・ピアーズに代わっており、海軍長官もジェイムズ・コクラン・ドビンに代わっており、侵略目的の武力行使は禁止する旨の命令が出ていたのですが、、航海途上のペリーには届いていませんでした。

琉球来航

上海で艦隊旗艦を「サスケハナ」に移し5月17日に出港、5月26日には琉球王国(当時は薩摩藩の影響下にあった)の那覇に停泊しました。この時ペリーは首里城への訪問を打診しましたが琉球王国側はこれを拒否しました。しかしペリーはこれを無視して武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍しました。

この時、琉球王国は、首里城内に武器の持ち込みと兵士の入場だけは拒否するという姿勢を示し、ペリーは武装解除した士官数名とともに入場、ペリー一行は首里城北殿で茶と菓子程度のもてなしを受け、開国を促す大統領親書を手渡しました。その後は場所を城外の大美御殿に移して酒と料理で持てなされ、ペリーはそれに感謝して返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待、同行のフランス人シェフの料理を振舞いました。

しかしこの時の琉球王国のもてなしとは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清国の冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出す事で、暗黙にペリーの要求への拒否を示していたと言われています。結果、友好的に振舞った事で武力行使を避ける事は出来ましたが、琉球王国は結果としてこのあとのペリーへの日本来航の際、中継点として活用されたのです。

◆小笠原探検

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させて、自ら6月9日に出港、6月14日から18日にかけて、当時まだ領有がはっきりしていなかった小笠原諸島を探検しました。このときにペリーは小笠原諸島の領有権を宣言しましたが、即時にイギリスから抗議を受け、ロシアからは抗議を受けるばかりではなくロシア船舶も小笠原近海に南下したために、結果としてこの宣言は有耶無耶になりました。

後の小笠原諸島は日本が林子平著「三国通覧図説」の記述を根拠に領有権を主張し、幕府旗本の水野忠徳を派遣して、八丈島の住人を積極的に移住させる事で、イギリスやロシア、そしてアメリカに領有権を認めさせる事が出来たのです。

浦賀来航

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)17時にペリー率いるアメリ東インド艦隊は浦賀沖に現れ停泊しました。当時の日本人が見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍イギリス海軍の帆船とは異なり、黒塗りの船体の外輪船で帆以外にも蒸気機関で航行し、帆船を1隻ずつ曳航しながら煙突からもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人はこの船を「黒船」と呼んだのです。

実はこれより1年前の1852年7月21日(嘉永5年6月5日)、オランダ商館の館長、ヤン・ドルケン・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出していました。そこにはアメリカが日本と条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣するということが記載されており、中国周辺にあるアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わった事、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているという噂がある事も書かれていました。そして出航は4月下旬以降になると言われている事も書かれていました。

さらに同嘉永5年6月25日付けのオランダ領インド総督のバン・トゥイストから長崎奉行宛ての親書「大尊君長崎奉行様」が提出されてきましたが、そこにはアメリ使節派遣に対処するオランダの推奨案として以下の内容が書かれていました。

「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大阪、堺、長崎の五か所の商人に限る」

これは全部で10項目からなるもので、これは通商条約素案ともいえる内容でした。またこの親書には1844年の親書のあとも開国されなかったので、オランダ王国の国王は失望しているが、もし戦争になればオランダにも影響が及び兼ねないなどの懸念も記されていました。

これらオランダからの予告を受けた老中首座の阿部正弘は、夏ごろに将軍に拝謁する順番をまっていた譜代大名にこの予告を回覧し、海岸防禦御用掛にも意見を求めましたが、通商条約は結ぶべきではないという回答を得ました。また長崎奉行からもオランダは信用できないという意見もあった事から、幕府の対応としては三浦半島の防備を強化するために川越藩彦根藩の兵を増やすに留めました。加えてこの情報は幕府内でも奉行レベルの上層部に留め置かれ、来航が予想される浦賀の与力にも伝えられませんでした。

ただこのオランダからの予告を、阿部正弘外様大名である島津斉彬には年末までに口頭で伝えた様で、斉彬は翌年のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡来以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったと言いますが、これは幕府の中では少数派であった様です。

 

ここまでがペリー来航までの流れとなります。

私が学生時代に学んだペリー来航の歴史では、オランダからの事前連絡が徳川幕府に入っていたという事までは記憶にありません。

実はペリーがアメリカのノーフォーク港を出港する前に、既にそれらの情報は徳川幕府に知らされていましたが、具体的な対策という事については何ら検討もされていなかった事が、これらの事から解ります。

日本は「鎖国状態」にあり、何も知らない状態の中で、いきなりペリー提督が浦賀に来訪していたという事ではなく、当時でも長崎を通じてオランダから世界情勢については、定期的に徳川幕府は入手するルートを持っていたのです。そしてペリー艦隊来航については一年以上前にオランダから既に情報を入手しており、しかも薩摩藩島津斉彬からは琉球来航以降の動静についても入手をしていたのです。この事から考えても、江戸幕府当時の日本は「鎖国」といった状況では無かったのが解ります。

しかし何ら有効な手を打てていなかったのは何故なのでしょうか。

そこには250年に渡る平和な時代の中で、幕府官僚も緊張感が無かったという事もあったかもしれませんが、それと共に国内諸藩を江戸幕府は力で押さえつけ、幕府に対する反抗の芽は事前に摘み取るべく様々な仕掛けを作り、その上で幕府が社会の安定を図ってきたという事も要因の一つとして考えられるのではないでしょうか。

こういったペリー来航時の幕府の動きを見ると、長く続く「平和」や「安寧」がけっして悪いとは言いませんが、結果としてそれにより内向きな政治姿勢を固着させ、国際的に対応する政治的な能力をそぎ落としてしまうのではないか。少なくとも安土桃山時代の織田政権や豊臣政権、また初期の徳川幕府の様な対外的な能力が、この幕末の幕府には欠如していた様に思えるのです。そして現在の日本国の政治にも、この幕末の政治家と同様な事があるのではないだろうかと思えてしまう歴史でした。

(続く)