自燈明・法燈明のつづり

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ペリー来航に対する幕府の対応

ペリー艦隊の来航に際し、浦賀奉行の戸田氏栄はアメリカ艦隊旗艦サスケハナに対して、まずは浦賀奉行与力である中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡す事が目的だという事を把握しました。この時、サスケハナに乗艦するために中島は「副奉行」と役職を詐称しましたが、ペリー側では幕府の階級が低すぎると親書を預ける事を拒否しました。翌7月9日(嘉永6年6月4日)に、浦賀奉行の与力であった香山栄左衛門が浦賀奉行と称してサスケハナを訪問し、ブキャナン艦長とアダムス参謀長、またペリーの副官であったコンティ―と会見しました。

しかしペリー側の対応は変わらず親書は最高位の役人にしか渡さないと撥ねつけられました。香山は4日間の猶予をくれる様に頼みましたが、ペリーは3日間だけ待ち、「新書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しをすることになる」と恫喝したのです。

この日、ペリーは艦隊所属の各艦から1隻ずつ武装した小型艇を派遣して、浦賀湾内を測量させました。この測量は幕府側に威圧を与えるという効果をもたらしました。この行動に浦賀奉行は抗議しましたが、ペリーは鎖国体制下での不平等な国際関係を排除する考えだと言いながら、その実は日本に対して不平等な関係を強いる考えが含まれていた様です。

7月11日(嘉永6年6月6日)には早朝から測量艦艇を江戸湾内に20キロほど侵入させて、その護衛にはミシシッピ号を付けていました。この行動の裏には「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(江戸幕府)の目を覚まさせ、アメリカにとってより都合の良い返答を与えるだろう」との期待があったようです。

これら一連の行動は幕府に大きな衝撃を与えました。この時、第12代将軍の徳川家慶は病床に伏せており、国家の重大事を決定できる状態にはありませんでした。老中首座の阿部正弘は7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらであれば仕方がないだろう」との結論に至り、7月12日(嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から親書を受領し、返事は長崎オランダ館長を通じて伝達する事を浦賀奉行に訓令し対応にあたらせたのです。

して7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許可し、旗本の下曽根信敦率いる幕府直轄部隊に加え、陸上を川越藩彦根藩海上会津藩と忍藩が警備するなか、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見しました。ペリーは彼らに開国を促す大統領フィルモアの親書を渡し、提督の信任状、覚書などを手渡しましたが、幕府側は「将軍が現在病気であり決定できない」として1年間の猶予を要求しました。それに対してペリーは「返事を聞くために1年後に再度来航する」と告げてこの会見は終わりました。

幕府側は会見が終われば2~3日すれば退去すると考えていたのですが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピ号の移乗し、浦賀から20マイル屋上して江戸の港を明瞭に見る事ができるところまで進め、幕府に十分な威嚇をしてから小柴沖に引き返しました。7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に停泊していた艦隊と合流してイギリス植民地である香港へ帰りました。

◆当時の町民等の反応

この浦賀来航でペリーの艦隊は、アメリカの独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として江戸湾内で数十発の空砲を発砲しました。この件は事前に幕府側に通告もあり、町民にもお触れが出ていたのですが、最初の砲撃により江戸は大混乱に陥りました。しかしやがてそれが空砲だとわかると、町民は爆発音を耳にする度に花火感覚で喜んだそうです。

また来航翌日の嘉永6年6月4日には、浦賀には見物人が集まりはじめ、翌々日には江戸から見物人も殺到したと言います。その中には佐久間象山吉田松陰も見物に訪れていました。この見物人の中には勝手に小舟で近づくものや、乗船して接触を試みるものも居ましたが、幕府から武士や町人に対して「十分に警戒する様に」とお触れが出され、実弾発砲の噂もながれた事から次第に不安が広がる様になったと言います。

◆幕府内の動き

ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)、第12代将軍の徳川家慶が死去しました。将軍後継者の徳川家定は病弱で国政をに会える人物ではありません、しかし老中らにも名案はなく、このペリー来航により国内には異国排斥を唱える攘夷論が高まり始めたのです。老中首座の阿部正弘はペリーが残した開国要求に頭を悩ませたのです。

8月5日(嘉永6年7月1日)、阿部は広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に関わらない人々に対しても外交について意見を求めましたが、幕府が意見を求めるというのは江戸幕府開闢以来であり、この事に今まで発言権のなかった外様大名は喜びましたが、かといって名案は出ませんでした。そしてこの阿部正弘が行った広く意見を求める行為は、これ以降、国政を幕府単独ではなく合議で決定しようという「公儀興論」の考えを弘めてしまい、結果として幕府の権威を下げる事にもつながってしまいました。

また阿部正弘は、アメリカ側と戦闘状態になった場合に備えて江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に幕臣で伊豆韮山代官であった江川太郎左衛門らに砲撃用の台場造営を命じました。江川は富津―観音崎本牧―木更津、羽田沖、品川沖という4線の防禦ラインを提案しましたが、予算・後期の関係からまず品川沖に11か所の台場が造営される事になりました。

12月14日(嘉永6年11月14日)には建造途中の1-3番台場の守備に川越藩会津藩、忍藩が任じられました。また江戸時代初期に制定された「大船建造の禁」についても解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日(嘉永6年9月19日)い浦賀造船所で起工したのです。オランダへの艦船発注もペリーが去ってから1週間後の7月24日(嘉永6年6月19日)には決定、これは後の蒸気軍艦の威臨丸・朝日丸となりました。

12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し、土佐藩の藩校の教授となっていたジョン・万次郎を旗本格で登用し、アメリカ事情などについて説明を受けたのです。

(続く)