
江戸湾を退去してから半年過ぎた1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリー率いるアメリカの東インド艦隊は再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めでは1年間の猶予としていましたが、あえてペリーが半年で再度来航した事に幕府は大いに焦りました。実はペリーは香港で将軍の家慶の死去を知り、国政の混乱の間隙を突こうと考えたようで、それはペリーの外交手腕であるとも言えます。
2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦の「サスケハナ」「ミシシッピ」「ポータハン」(蒸気外輪フリゲート艦)「マセドニアン」「ヴァンダリア」(帆船スループ)「レキシントン」(帆船補給艦)の計6隻が浦賀に到着しました。この時、2月12日に三浦半島の長井村沖でマセドニアン号が座礁したので、浦賀奉行所が第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊はすぐに救助に向かいましたが、この時に奉行所と彦根藩が助力を申し出ました。しかし日本側の救助を待たずにミシシッピ号が到着して救助しました。この時、日本側では浜辺に打ち上げられたバラストを拾い上げ、20マイル離れた艦隊まで送り届けました。
江戸湾到着後、艦隊旗艦は「ポーハタン」となり、2月13日から浦賀奉行所の旗本で組頭である黒川嘉兵衛と、ペリー側からアダムス中佐の間で応接場所に関する折衝が始まりました。奉行所では浦賀の館浦に応接所を建て、そこを応接場所にと申し出ましたが、ペリー側では納得せず、2週間後の2月27日に場所は横浜という事で決着しました。
横浜に応接所が完成し、3月8日にアメリカ側は総勢446名が横浜に上陸しました。ペリーの艦隊ですが、3月4日には「サラトガ」(帆船スループ)、また3月19日には「サプライ」(帆船補給艦)の2隻が到着し、合計9隻の艦隊が江戸湾に終結し、江戸市中は大きく動揺しました。しかしその一方で前回同様、浦賀には見物人が多数詰めかけ、観光地の様な状況となり、勝手に船を出してアメリカ人と接触する市民も居たと言います。
◆横浜での交渉
突然の大艦隊の来航に幕府は狼狽したものの、前回の来航の時と同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取る事はなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対してフランス料理を振る舞い歓迎しました。また日本側も横浜の応接所で会談終了後に、昼食として本膳料理を出して応響したと云います。
さて、会談ですが、3月8日に横浜の応接所で始まりました。日本側はアメリカ大統領の親書に対して、薪木、食糧、石炭の供与及び難破船や漂流民救助の件は了承しましたが、通商の件については承諾できないと回答しました。その後、林大学頭とペリーとの間で応酬しましたが、結果としてペリーは通商の要求については取り下げました。翌3月9日、日本側がペリーに、避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置いて、それまでの間は長崎を充てるとする書簡を渡しました。3月10日、ペリー側からアメリカの土産を献上したいと提案があり、3月13日に献上品の目録と返礼品の目録が渡されました。この時の献上品は全部で140点にのぼりました。
3月11日にはアメリカ側から即刻の開港と条約締結を要求する書簡が届けられましたが、3月15日、日本側は以前と同じ内容の条約草案を渡したのです。3月17日、横浜の応接所で会談が行われ、アメリカ側は3月24日までに数か所の開港を要求しました。3月19日、林大学頭らは江戸に戻り、老中と相談し、3月24日、横浜会談において、下田と函館の2港開港が合意されました。
3月28日、横浜での会談で、ペリーは下田の遊歩区域と下田にアメリカ人の役人を駐在させることを要求してきましたが、林は貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を供与するだけであるため、応じかねると返答しました。ただし18か月後に来るアメリカの使節と再度話し合うことで合意したのです。3月29日に徒目付の平山謙次郎らを派遣して協議の結果、遊歩地の件は7里四方で、開港日は条約上では即刻、実際は来年4月か5月で、条約調印の日は3月31日で合意しました。3月30日、平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した結果、条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示したのですが、日本側はそれぞれの署名を別紙に認めて交換するよう主張し、押し通しました。
◆日米和親条約の締結
約1か月にわたる幕府とペリーの協議の末、3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現・神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎(日本側全権・応接掛(特命全権大使)に任命)を中心に交渉が開始され、全12か条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれたのです。
その後、ペリーは5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたのですが、権限がないとして拒絶されるました。箱館から戻ったあと、伊豆国下田(現・静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13か条からなる下田条約を締結しました。
ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させました。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』をまとめて議会に提出しましたが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去したのです。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めたうえに、清に対する影響力を拡大してしまいました。
(続く)