
前の章では道教や儒教の中に仏教が混入した事について日蓮は述べていましたが、つづいて漢土(中国)や日本の中で、法華経宗と表題に書きましたが、天台大師智顗の打ち立てた宗派がどの様に興亡していったのかについて述べています。
日蓮の法華経信仰の原点は天台大師智顗の天台宗ですが、これは清澄寺も天台宗寺院であり、その後に修学した比叡山延暦寺も天台宗の寺院であった事からも解ります。日蓮はこの天台宗の教えによって法華経を知り、法華経こそが大乗仏教の最大一の経典である事を理解しました。前の記事で紹介した清澄寺での「生身の虚空蔵菩薩」の伝説についても、それを暗喩した内容であった事は紹介させて頂いた通りです。
ここではこの天台宗の教えがどの様に漢土(中国)や日本で興亡していったのかについて日蓮は述べていますので、その部分について読み進めていきます。
◆漢土(中国)における興亡
「仏教又かくのごとし、後漢の永平に漢土に仏法わたりて邪典やぶれて内典立つ、内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども陳隋の智者大師にうちやぶられて仏法二び群類をすくう、其の後法相宗真言宗天竺よりわたり華厳宗又出来せり、此等の宗宗の中に法相宗は一向天台宗に敵を成す宗法門水火なり、」
ここでまず後漢(西暦25年~西暦220年)に中国に仏教が伝来し、そこで儒教や道教が敗れて仏教が確立されたと言います。しかし中国に渡った仏教はその後、南三北七という様に様々な宗派へと分派されていきましたが、その様な中で陳随の時代に天台大師智顗が現れて、この様な分派した仏教をまとめました。
しかしその後、中国には法相宗や真言宗がインドから伝来し、また華厳宗もおきましたが、中でも法相宗が天台宗と対立し、その様は水と火の様なものだったと言います。
「しかれども玄奘三蔵慈恩大師委細に天台の御釈を見ける程に自宗の邪見ひるがへるかのゆへに自宗をばすてねども其の心天台に帰伏すと見へたり」
ここでは玄奘三蔵とその弟子で法相宗を開いた慈恩大師は、天台大師の教えを知り、自分達の宗派の間違いを理解はしたのですが、自宗派を捨てる事はしなかったと言います。ただ心の中で彼らは天台大師に帰伏していたと言うのです。
「華厳宗と真言宗とは本は権経権宗なり善無畏三蔵金剛智三蔵天台の一念三千の義を盗みとつて自宗の肝心とし其の上に印と真言とを加て超過の心ををこす」
次に華厳宗や真言宗は、その教えの元は権経だったのですが、真言宗の善無畏三蔵や金剛三蔵等が、法華経の一念三千を自分達の宗派の教えだと盗むだけではなく、印や真言という、それまで伝わって来なかった密教の教えの分だけ、法華経よりも優れていると主張しました。
「華厳宗は澄観が時華厳経の心如工画師の文に天台の一念三千の法門を偸み入れたり、人これをしらず。」
また華厳宗では澄観が華厳経の「心如工画師」という言葉を元に、こちらも同様に一念三千の法門を自分達の宗派の中に盗み取ったと言うのです。
中国では天台大師智顗によって、各宗派が天台宗の元に一つになった様に見えましたが、その後、真言密教などが伝播する中で、天台宗の肝心であった一念三千が、この新たな宗派の中に取り込まれていき、それらが勢いを増していったという事なのでしょう。
◆日本における興亡
日本についてはどうだったのか、続けてその部分について読み進めてみます。
「日本我朝には華厳等の六宗天台真言已前にわたりけり、華厳三論法相諍論水火なりけり、伝教大師此の国にいでて六宗の邪見をやぶるのみならず真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらはれをはんぬ」
日本に仏教が伝来したのは西暦538年説と552年説があります。いずれも朝鮮の百済から欽明天皇の時代に伝来したのです。この時代、中国では天台大師が在世の時代に被るようですが、日本にはその後、先に流入したのは華厳宗などの宗派であり、天台宗や真言宗はその後に日本へと伝来しました。ここはインドから中国への伝来とは順序が異なっていたのです。
確かに真言宗は弘法大師空海が、天台宗は伝教大師最澄が日本に伝えましたが、それ以前に他の宗派は既に国内に伝わってきており、日本でも官僧の制度などが確立していた時代でした。
そしてこの日本国内でも、仏教の各宗派はそれぞれ論争が起きていて、中国の南三北七と同様に、水火の様な状況だったようです。
その中で伝教大師がこれらの宗派だけではなく、真言宗が天台宗の一念三千を自宗派の中に取り込んでいた事を明確に示したというのです。これは中国の天台大師智顗の様ですね。その結果、最澄の開いた比叡山延暦寺が日本の根本道場となり、国内の寺院は全て天台宗の末寺となったと言うのです。しかしこれも長続きはしませんでした。
「又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらはれぬ、又其の後やうやく世をとろへ人の智あさくなるほどに天台の深義は習うしないぬ」
この最澄の働きにより、中国で全ての仏教宗派が天台宗に帰伏した時の様に、日本も天台宗の元に統合され、平穏な時代なったと言うのです。しかしその後、時代が過ぎていく中で、人々の智慧は浅いものになり、天台宗の深い教えを人々は習う事をしなくなり、結果として日本に於いても天台宗の衰退がはじまりました。
「他宗の執心は強盛になるほどにやうやく六宗七宗に天台宗をとされてよわりゆくかのゆへに結句は六宗七宗等にもをよばず、いうにかいなき禅宗浄土宗にをとされて始めは檀那やうやくかの邪宗にうつる、結句は天台宗の碩徳と仰がる人人みなをちゆきて彼の邪宗をたすく、さるほどに六宗八宗の田畠所領みなたをされ正法失せはてぬ天照太神正八幡山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざるか国中を去り給うかの故に悪鬼便を得て国すでに破れなんとす。」
そして日本国内では言うに及ばない宗派である禅宗や浄土宗などが広がっていき、その結果、日本の国内では正法が消え失せて諸天善神が国を捨て去ってしまい、今(鎌倉時代当時)の様に国が衰えてきてしまったと言うのです。この辺りは立正安国論で諌暁した内容となります。
ここまでが日蓮が自身の仏教史観を語る部分となっています。
日蓮は門下に対して、こういった仏教史観に根差した中で、日蓮の打ち立てた教えがある事を、ここで語っておきたかったのでしょう。