自燈明・法燈明のつづり

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開目抄について⑤-二乗作仏について

開目抄では先に「二箇の大事あり」と、爾前経と法華経には二つの大きな違いがある事を述べましたが、ここでその事について詳述を始めます。

「此に予愚見をもつて前四十余年と後八年との相違をかんがへみるに其の相違多しといえども先ず世間の学者もゆるし我が身にもさもやとうちをぼうる事は二乗作仏久遠実成なるべし」

ここでこの二箇の相違とは、二乗作仏と久遠実成の二つであると言います。

◆二乗作仏について

続けて法華経の現文を拝見するに舎利弗は華光如来迦葉は光明如来…」法華経譬喩品第三から、釈迦の十大弟子と言われる弟子たちが次々に成仏の記別を受けていく事を述べていきます。二乗作仏とは声聞や縁覚という境涯の人達が成仏する事を明かした事で、法華経では声聞や縁覚の弟子たちに順次、釈迦は成仏の記別を与えていきます。

ちなみに前にも説明しましたが、ここでいう「記別」とは、遠い未来世に成仏する事を約束した事であり、そこで直ぐに成仏したという事ではありません。そして日蓮法華経を読むだけだと「けをさむる事どもをほし」と、それぞれ記別を受けた弟子たちは尊い人の様に見えるが、実は爾前経では、そうでなかった事をこの後に述べるのです。

「而れども爾前の諸経も又仏陀の実語なり大方広仏華厳経に云く「如来の知慧大薬王樹は唯二処に於て生長して利益を為作すこと能わず、所謂二乗の無為広大の深坑に堕つると及び善根を壊る非器の衆生は大邪見貪愛の水に溺るるとなり」等云云」

まず大方広仏華厳経という経典の中では、二乗とは「無為広大な深い穴に落ちる事と、大邪見貪愛の水に溺れている善根が壊れ器にならない衆生である」だと釈迦は叱りつけています。それ以外にも「一闡提人」という極悪人でも成仏は出来るか、二乗は絶対に成仏出来ない等説かれていた事を紹介していきます。

そして釈迦は何故、この様に二乗に対して絶対に成仏が出来ないと、徹底して責めた理由について以下の経文をにある事を述べていきます。

「大集経に云く「二種の人有り必ず死して活きず畢竟して恩を知り恩を報ずること能わず、一には声聞二には縁覚なり、譬えば人有りて深坑に堕墜し是の人自ら利し他を利すること能わざるが如く声聞縁覚も亦復是くの如し、解脱の坑に堕して自ら利し及以び他を利すること能わず」等云云」

大集経では、二乗は解脱した後、死して生き返る事もなく、また自分を利する事(自分自身が解脱する事)のみ執着して、他者を決して救済する事が無いと言い、その様は「深い穴に落ちた人の様だ」と説かれていて、その為に二乗は成仏出来ないと説かれています。

それ以外にも大品般若経、首楞厳経、浄名経にも二乗を叱る内容が説かれており、その様はまるで「我が御弟子を責めころさんとにや」と思えるほどの内容が説かれていて、それぞれ経典の説法を聴聞した人々も、迦葉や舎利弗などは成仏出来ない者だから、供養はしていけないとまで考える様になったと日蓮は述べるのです。

「而るを後八年の法華経に忽に悔還して二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに人天大会信仰をなすべしや」

その様に二乗は徹底的に成仏を否定された状況なので、法華経に至ってその弟子たちが未来世において成仏する事が説かれたと言っても、人々は果たしてその言葉を信用したのであろうか。これ自体が釈迦の自語相違であり、これまで法華経を読んだ外道がこの二乗作仏を見て「釈迦は大噓つきだ」と言ったのも、こう言った事からだったと言うのです。

「人天大会けをさめてありし程に爾の時に東方宝浄世界の多宝如来高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大七宝塔に乗じて教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられてとのべかうのべさまざまに宣べさせ給いしかども不審猶をはるべしともみへずもてあつかいてをはせし時仏前に大地より涌現して虚空にのぼり給う」

ここで「人天大会けをさめて」と、日蓮の解釈としては二乗作仏が説かれた時、集まっていた聴衆も釈迦の自語相違に実は興ざめしていた処に、東方宝浄世界の多宝如来が出現し、そこで人々を虚空へと登らせ、そこで十方の諸仏も様々な瑞相を示す事で、この釈迦の説いた二乗作仏について証明したと言い、その様は爾前経の中ではみた事も無い規模の情景が説かれていた事を述べます。

しかしそうは言ってもと、日蓮は続けます。

「但在世は四十余年をすてて法華経につき候ものもやありけん、仏滅後に此の経文を開見して信受せんことかたかるべし」

釈迦の在世の時には、法華経の会座でこの様に諸仏までもが証明したので、法華経を信じた人も居たかもしれないが、釈迦滅後に法華経を読んでそれを信じろというのは実に難しい事だと述べるのです。日蓮は続けて経典の数の多さや釈迦の説法の期間を考えてみても、法華経はただ一つの経典であり、説法の期間は8年間でしかない。ましてや今の時代(鎌倉時代)には法華経と他の爾前経も同じだと説く僧を人々は尊重している。だから法華経に説かれる二乗作仏を信じろと言っても難しい事だろうと述べています。

日蓮云く日本に仏法わたりてすでに七百余年但伝教大師一人計り法華経をよめりと申すをば諸人これを用いず」

日蓮は続けます。日本に仏教が伝来して七百年以上経つが、その中で法華経については伝教大師だけがその真意を理解していたと言います。ただしこの後、法華経にある「六難九易」を引用し、涅槃経には末代に謗法の者が十方に土の様に充満し、正法を理解する者は爪の上の土ほどしかいなという経文を引用し、日蓮だけがこの時代に法華経の事を理解していると述べて、これを理解出来ないという事は、舎利弗等の二乗の人達は成仏出来ない事にもなってしまい、それはとても嘆かわしい事では無いかと述べるのです。

(続く)