
ここから日蓮の教えの核心部分へと入っていきます。
◆本門の因果について
「此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
ここで「二つの大法」というのは、二乗作仏と久遠実成の事を指しますが、ここで日蓮は法華経迹門の方便品では一念三千と二乗作仏を説いているので、失の一つは逃れているが、久遠実成を説いていないので、本当の一念三千も二乗作仏も実は定まっていないと言い、そしてその様は、水面に映る月を見る様なものだと言うのです。そして法華経本門で久遠実成を明かす事で、それまでの始成正覚を破る事となり、結果、四教の因果は破られたと言います。
ここでいう四教の因果とは、天台大師の五時八教という論の中で、釈迦の一代説法の時代分類の内、華厳時から阿含、方等、般若という四つの時の因果を言い、ここでいう因果とは成仏の為の修行(因)と、その修行による成仏(果)を指します。
これら爾前経では、人々が悟りを得るためには長い時間、それこそ多くの生死流転の中でひたすら仏に仕え、そこで修行をした結果として悟りを得て成仏すると説かれていました。
久遠実成では、まず釈迦は既に五百塵点劫という久遠の昔に悟りを開いていたと言う事を説き明かし、また久遠の昔から今に至るまで、仏として衆生救済もしてきましたが、それと同時に様々な衆生の姿として現れ、それぞれに修行をしていた事を説き明かしました。
これにより爾前経で説いていた成仏観が否定されたのです。そうなると爾前経で説かれていた成仏の為、多くの生死流転の中でひたすら仏に仕え、そこで修行するという事も目的を失う事になりますので、結果として四教の因を破る事にもなります。
この様に四教の因果を否定した先に現れたのが、本門の因果が解き明かされたと言うのです。そしてそこで明かされたのが本門の因果です。
この本門の因果の姿とは、「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」というものでした。
これは無始の九界、これは遠い過去から今に至るまで、私達が日常生活の中で感じる心の境涯ですが、過去から現在に至るまでの全ての心の働き自体が全て仏界の働きの事だと言い、また仏界というのも、実は過去から現在に至るまで、私達の日常生活の中の心の境涯の中に常に具わっていたと言う事なのです。そしてその事を示したのが「真の十界互具百界千如一念三千なるべし」だと言うのです。
ちなみに私は、これこそ日蓮の教えの核心の部分だと私は思うのです。
「かうてかへりみれば華厳経の台上十方阿含経の小釈迦方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを諸宗の学者等近くは自宗に迷い遠くは法華経の寿量品をしらず水中の月に実の月の想いをなし或は入つて取らんとをもひ或は縄をつけてつなぎとどめんとす、天台云く「天月を識らず但池月を観ず」等云云。」
そしてその観点から省みれば、二前胸にある様々な仏の姿も、実は久遠実成の釈迦が、この世界に落とした影の様な姿であって、法華経如来寿量品の事を知らなければ、それぞれ爾前経の仏の姿を見て、その姿を得よう(悟りを開こう)としても、それは水面に浮かぶ月を捕ろうとする様なもので、その事を天台大師は「天月を識らず但池月を観ず」と言っていたと述べています。
◆難信難解を語る
この本門の因果について、そうは言ってもこれは信じ難い事でもあるし、理解し難い事でもあります。その事について日蓮は続けて述べていきます。
「日蓮案じて云く二乗作仏すら猶爾前づよにをぼゆ、久遠実成は又にるべくもなき爾前づりなり、其の故は爾前法華相対するに猶爾前こわき上爾前のみならず迹門十四品も一向に爾前に同ず、本門十四品も涌出寿量の二品を除いては皆始成を存せり、雙林最後の大般涅槃経四十巻其の外の法華前後の諸大経に一字一句もなく法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず、いかんが広博の爾前本迹涅槃等の諸大乗経をばすてて但涌出寿量の二品には付くべき。」
日蓮はこの事を考えてみると、二乗作仏という事すら爾前経の方が多くの人に信じられているので、法華経で説かれていると言っても直ぐに信じられない事と思われるし、久遠実成などは言うべき無い事だと言うのです。
何故ならば法華経と爾前経を比較すれば爾前経が強く信じられているうえ、法華経においても迹門十四品では始成正覚という立場の釈迦であり、涅槃経や法華経前後に説かれた経典に於いても、釈迦は始成正覚と思われており、そこでは法身の永遠性は説かれていても応身や報身の事は説かれておらず、そんな状況で、全ての大乗経典を捨てて法華経の如来寿量品を信じる事は難しいと言うのです。
またこの後の部分で、法相宗の無著菩薩という論師で、これは後の世親等の大論師の師匠でもある大人物の説いた論や、この法相宗を中国に伝えた玄奘三蔵の論を取り上げ、彼らはこの二乗作仏や久遠実成を述べていない事を指して、日蓮がこの事を述べているのは、単に天台大師や妙楽大師、また伝教大師の嘘に騙されたのではないかと指摘されている事を述べます。
また華厳宗や真言宗からは、この重要な事柄は既に華厳経や大日経に明確に説かれている事であり、久遠実成などは法華経寿量品に限り説かれているという主張は「井の中の蛙」の様なものだと指摘されている事も述べていきます。
恐らくこの辺りの論は、この当時の日蓮に対して指摘されていた事を、あえて述べた部分だと思われます。二乗作仏や久遠実成というのは説かれていない。また説かれていてもそれは何も法華経に限った事ではないという論及です。
八万法蔵と言われる膨大な経典の中で、久遠実成は如来寿量品前後の中でのみ明確に説かれている事であって、やはり他宗派の多くの僧侶や門信徒にとって、この久遠実成を以て顕されたという本門の因果の法門と言うのは、人々にとって中々信じ難い事でもあるし、理解し難い法門だという事なのでしょう。
(続く)