
日蓮は法華経の行者を自認していますが、その日蓮に何故諸天の加護が無いのか、その事について考察を進めていきます。
ここからの内容は、個人的には「くどい」という感想を抱いてしまいましたが、考えて見ると、この事は日蓮の門下の中でも大きな疑念として渦巻いていたのかもしれません。現代でもそうですが、鎌倉時代に仏教を信じた人たちは、平穏に暮らしたい、神仏の守護を受けたいという事から各宗派を信仰していたと思います。そしてこれは日蓮門下でもそうでしょう。しかし日蓮門下となった後、その中心者の日蓮は二度も幕府から断罪され島流しを受けていて、その日蓮の教えを信じた門下も様々な弾圧を受けているのです。こうなれば当然、日蓮門下の中では動揺もあったであろうし、本来願っていた事とは違う状況に見舞われていると感じる門下も多く居たと思うのです。
そういった門下に対して、日蓮は法華経の信仰とは何か、何故この様な難に逢うのか等を出来るだけ事細かく語り残して置きたかったのではないでしょうか。
ここでまず日蓮は中国の故事にある様々な報恩や忠孝の姿勢について述べていきます。
「季札といひし者は心のやくそくをたがへじと王の重宝たる剣を徐君が墓にかく王寿と云いし人は河の水を飲んで金の鵞目を水に入れ公胤といひし人は腹をさいて主君の肝を入る此等は賢人なり恩をほうずるなるべし」
ここで言う季札とは中国の春秋時代の政治家で、ここで紹介しているのは「季札剣を挂(か)く」という逸話で、細かい話は省略しますが、要は「約束や決意を状況が変わっても貫く事」の美談を紹介しています。また王寿は河の水を飲んだ事の恩を河に報いるためにお金を水に投げ入れたという説話で、これは報恩を説く故事の話です。またここで公胤とありますが、これは春秋時代の忠臣の話で、戦場で戦死した主君を見つけて号泣し、その主君のお腹を割いて肝を取り出し、それを自身のお腹を割いて中に入れて死んだという説話であり、これは忠孝の手本となる話です。
これら故事を紹介した後、日蓮は舎利弗や迦葉と言った仏典に紹介される聖人と言われる人物も、爾前経で成仏出来ないとひたすら責められ、当時の人々からも供養も施されずに、彼ら自身も嘆き悲しむ中で、法華経に於いて成仏が許された事で聖人となり後世の人々も供養される様になったのであれば、末代の時代にその大恩ある法華経の行者が出現したら守護するべきであると語るのです。このあたりの内容はかなり長文で繰り返しの内容でもあったので、ここでは端折りましたが、興味があれば本文を読んでみてください。
「又諸大菩薩天人等のごときは爾前の経経にして記�をうるやうなれども水中の月を取らんとするがごとく影を体とおもうがごとくいろかたちのみあつて実義もなし、又仏の御恩も深くて深からず」
続いて仏典に説かれている様々な菩薩等についても書き続けます。ここでは爾前経ではこれら菩薩たちに記別(成仏の約束)が与えられている様に見える経典もありますが、それは仏の実の姿が説かれていない以上、所詮は水面に映る月の様にはかないものであり、また釈迦への御恩というものも特に深くはないと言うのです。
ここで何故、これら菩薩達が釈迦への恩が深くないのかについて、日蓮は書いていますが、それは釈迦が成仏した時には何も法を説いていなかった事を明かし、そこに法慧菩薩、功徳林菩薩、金剛幢菩薩、金剛蔵菩薩等という六十余の大菩薩が十方の諸仏の国土から釈尊の前に来て賢首菩薩、解脱月等の要請に従って十住、十行、十回向、十地等の法門を説いたというのです。そしてこれら菩薩達の説いた教えとは釈迦に習ったものではありません。また様々な諸天も来集した事も説かれていますが、これらは華厳時であり、始成正覚の釈迦の弟子たちでは無い事を述べています。そして釈迦が初めて法を説いたのは阿含時以降であり、そこで漸く釈迦の仏弟子たちも出てきた事になりますが、そこで説いた教えも「未顕真実」の範疇であって真実の教えでは無かったというのです。
またここで説かれている大菩薩とは、見た目には釈迦の弟子の様に見えても、実は釈迦が始成正覚の立場で見れば、釈迦の成仏より以前からの菩薩であり、釈迦もこれら菩薩達の説く法をきっかけとして、阿含以降の法を説いていったのであれば、姿は菩薩であったとしても、彼らは釈迦の師匠でもあるというのです。
そして師匠とは弟子の知らない事を教えるから師匠であり、釈迦が出世する前の人達は外道(婆羅門教)の二天三仙という聖人の弟子でした。釈迦も始めは彼らの教えに習い様々な修行をした時、苦空無常無我の理を悟り、外道の弟子という立場を離れて無師智と名乗ったことで、また人も天も大師と仰いだのであろうと述べています。そこから考えたら当初の釈迦は法慧菩薩等の弟子だと言い、例えば文殊菩薩は釈尊九代に渡る恩師であるという様なものであると述べ、つねづね諸経に「不説一字」とあるのはこの事であると言うのです。
「仏御年七十二の年摩竭提国霊鷲山と申す山にして無量義経をとかせ給いしに四十余年の経経をあげて枝葉をば其の中におさめて四十余年未顕真実と打消し給うは此なり」
そして釈迦が法華経を説く前、無量義経で「未顕真実」という事は、これらの事を全て打ち消す意味でもあったと言います。しかし無量義経では本義は説かれず、法華経方便品第二で略開三顕一という法義を説いた時、釈迦は心の中にある一念三千の法門を説いので、これは人々が初めて聞いた事でもあったので、舎利弗は驚き、多くの大衆も具足の道を聞きたいと希った事が法華経で説かれていると言います。またこの具足という事について、日蓮は以下の様に書き続けています。
「文の心は四味三教四十余年の間いまだきかざる法門うけ給はらんと請ぜしなり、此の文に具足の道を聞かんと欲すと申すは大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云」
ここで具足の道というのは、それまで爾前経では聞いた事の無い法門の事を言い、結論としてはそれは南無妙法蓮華経の事であったと言います。そして真言宗の論師である善無畏三蔵も肝心真言として述べた内容も、実は南インドの鉄塔の中にあった法華経の肝心の事だと言い、この肝心とは一念三千の大綱であり、その骨髄である二乗作仏や久遠実成の事であったと言うのです。
ここまでが「開目抄上」に書かれている内容となります。
ここまで概略を説明しつつ、本文はかなり省略をさせて頂きました。この辺りについて、日蓮は本文の中で多くの中国の故事や様々な文献を「これでもか、これでもか」と多く引用しています。しかしその結果、これは私の私見となりますが、一読しても中々理解する事も難しく、結果としてとても難解な文書にもなっている様に思えます。
ここの開目抄の本文を、いちいち現代語訳して説明する事は、かなりの労力を必要とします。またこの開目抄で取り上げられている経典や論説は、とても幅が広くて全てを追いきる事もかなり難しいものです。
しかしここでは、要は二乗作仏が説かれたからこそ、釈迦の十大弟子をはじめとした声聞は聖人たりえる事になったし、久遠実成が説かれたからこそ、釈迦は本当の意味で全ての菩薩達の本当の師匠になりえたという事なのでしょう。
私はそのように読み取りました。
(続く)