
さて、ここから開目抄下に入ります。
前回の記事で二乗作仏について法華経で説かれた事で、釈迦の十大弟子等の多くの弟子が聖人として敬われる様になったとの話をし、その後に華厳経で説かれた法は、実は釈迦の説いた教えではなく、他の仏国土から来た菩薩が説いたものであり、それに触発されて阿含以降の釈迦の法は説かれる事となり、そこから釈迦の弟子たちも出てくる様になった事を説明し、また多くの菩薩達も始成正覚の立場から見たら釈迦の弟子では無く、そういった見方からすれば文殊菩薩でさえ、釈迦の師匠にあたるという事を述べていました。
開目抄下はこの続きからとなります。
「又今よりこそ諸大菩薩も梵帝日月四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ、されば宝塔品には此等の大菩薩を仏我が御弟子等とをぼすゆへに諌暁して云く「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦する今仏前に於て自ら誓言を説け」とはしたたかに仰せ下せしか、又諸大菩薩も「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」等と吉祥草の大風に随い河水の大海へ引くがごとく仏には随いまいらせしか。」
ここでは宝塔品で多宝如来が出現後、虚空会において釈迦は参集している大菩薩達を弟子だと思い、滅後の弘教を求めていましたが、この時の釈迦は未だ始成正覚の釈迦であるので、集まった菩薩達も実は釈迦の弟子では無かったと言うのです。また十方から多くの諸仏も来集し、これら仏も分身仏だと言いますが、始成正覚の釈迦の立場からすれば、分身仏とは言えないという事を言います。その事を天台大師は「分身既に多し当に知るべし成仏の久しきことを」と述べ、ここで久遠実成が匂わされた事で、虚空会の人々が驚いた事を示したと言うのです。
「其の上に地涌千界の大菩薩大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にもにるべくもなし、華厳方等般若法華経の宝塔品に来集する大菩薩大日経等の金剛薩�等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当すれば�z猴の群る中に帝釈の来り給うが如し」
その様な状況の中で、従地涌出品で六万恒河沙という膨大な人数の大菩薩が出現し、それを釈迦は「彼らは私の第一の弟子」と説きました。この時出現した地涌の菩薩の姿は普賢菩薩や文殊菩薩、またそれ以前にいた菩薩達よりも尊貴な姿をした大菩薩だったのです。
「弥勒菩薩心に念言すらく、我は仏の太子の御時より三十成道今の霊山まで四十二年が間此の界の菩薩十方世界より来集せし諸大菩薩皆しりたり、又十方の浄穢土に或は御使い或は我と遊戯して其の国国に大菩薩を見聞せり、此の大菩薩の御師なんどはいかなる仏にてやあるらん」
ここで弥勒菩薩が大いなる疑念を持ち始めた事を述べているのですが、この内容をまとめて言えば、弥勒菩薩は釈迦のこれまでの説法の場に参集してきた菩薩達は全員知っているが、これら地涌の菩薩は全く知らず、この大菩薩の師匠はどの様な仏であるのか、そう思ったというのです。そしてまさか釈迦仏や多宝仏の分身仏等とは似るべくも無い仏なのではないかと思い、その事について釈迦に質問したという言うのです。
それに対しての釈迦の答えは「仏此の疑を答えて云く「阿逸多汝等昔より未だ見ざる所の者は我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已つて是の諸の菩薩を教化し示導して其の心を調伏して道の意を発こさしめたり」」と、この大菩薩は自分が娑婆世界で悟りを得てから教化していた事を明かしました。
開目抄には、この時の弥勒菩薩の混乱の様子が述べられていますが、ここでは省略します。簡単に言えば、釈迦が成仏して四十余年という期間で、六万恒河沙のこの大菩薩を教化したのは信じられないと言ったのです。そして日蓮は、この弥勒菩薩の持った大きな疑問がとても大事であったと言います。そして如来寿量品へと法華経の展開は進みます。
「其の後仏寿量品を説いて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂えり」等云云、此の経文は始め寂滅道場より終り法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり、「然るに善男子我れ実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云」
ここば如来寿量品の冒頭で、始成正覚を破り久遠実成を明かす部分となります。この言葉により、これまでの経典で説いてきた自身の成仏の姿は嘘であったという事になりました。しかしこの久遠実成を明かす事で、十方の諸仏や爾前経に説かれた仏も釈迦の分身仏となり、全ての分身仏の弟子たちも釈迦の弟子となったというのです。またそればかりではありません。この世界の始めからいる日天子や月天子等、諸天善神も全て釈迦の弟子となれたと言うのです。
ここまでが久遠実成の事について、日蓮が述べた部分です。
始成正覚の立場のままでは、釈迦は華厳経で法を説いた菩薩達の弟子でもあり、文殊菩薩であっても、釈迦はその弟子という立場でした。また阿含時以降の弟子たちは確かに釈迦の弟子だったのですが、多くの菩薩達は釈迦の弟子という位置づけではなく、あくまでも他の仏国土から来た菩薩であり、十方の諸仏も釈迦の分身仏ではありません。
しかし久遠実成を明かす事で、全ての仏は釈迦の分身仏となり、菩薩達も釈迦の弟子という事になるばかりか、この世界に存在する諸天善神も全て釈迦の弟子という位置づけになる意味が、この久遠実成という事にはあったと言うのです。
(続く)